言葉について考えている(3) ~他人の言葉に傷つきやすい人へ~


他人の言葉に傷ついた経験は、きっと誰しもあるんではないかな。

それが親しい間柄、遠慮のない間柄であればあるほど、
お互いの心を刺激しあって「言ってはならないひと言」が出てしまうことってある。

私も過去を振り返れば、「言葉にまつわる嫌な思い出」が数々ある。

母から、教師から、夫から...。

ひとつひとつ振り返ると、
言葉というものはなんて大きな力を持っているのだろうと思う。

教師から受けた体罰よりも、嫌味たっぷりのひと言の方がよほど傷になっている。

もちろん私だって。

こんなに言葉が大好きで、
大人な言葉遣いを目指していこう、と意識はしているけれど...、
過去にデリカシーのない一言や二言...、
いや、自覚してないのも含めたら十言や二十言...、
言葉で人を不快にさせたことは、いくらだってあるだろう。

もし、私の言葉で傷ついた人たちが、
“あのとき△□○・・・って言われて傷ついた~!”
って苦情を言ってきたら、きっと色々言い訳するのだろう。

“いやぁ~あのときはこんな気持ちでさ、ついつい...”
“あのときああ言ったのは、こういうことを分かってほしかったんだよ~”

などなど...。




そう、言葉には

その裏に隠された思いがあるんだよね。^-^



発した本人も気づいていないけど...
人を傷つけるような言葉は、
その裏に、その言葉を発した真意が隠れている。

伝えたいのはその真意の方なんだけど、
その真意が自分自身にもいまいち見えていない。

だけど、伝えたいという気持ちだけは強くて、
強すぎるあまりに、何でもいいから相手の心を揺さぶろうとして、
強い言葉をぶつけてしまうんだ。

自分でも何だか分からない何かを分かってほしいから。




私たちはそんな風にして、
小さな子供と変わらないゴネ方を、大人になっても繰り返している。

子供の頃と変わったのは、
一見筋が通ったような理屈を言えるようになったこと。

自分の真意とかけ離れたことでも、
それなりにつじつまの合う言葉を組み合わせられてしまうこと。

子供は理屈にならない理屈でゴネるけど
大人になった今、理屈になる理屈でゴネることを覚えてしまった。

その結果、人と人の間に生まれたのは、
数え切れないほどの嘘や誤解や思い込み。

自分の言葉で自分もだませてしまうものね。

激しい感情の中で放ったひと言は、
放った自分自身も、それが本音であるかのような気分になってしまう。
だからこそ、受け取るほうもガーンとくる。
“アタシのこと、そんな風に思ってたんだ...!”とショックを受ける。




私が生まれたとき、男児を望んでいた父親はガッカリして
“な~んだ、女かよ”と言ったそうです。
子供の頃から、何度も何度も「笑い話」として聞かされました。
皆が笑うのを、複雑な思いで眺めていました。


23歳のとき、レイプ被害を受けた相手からは、
“お前は生きてる価値ねえな” と言われました。
体型を罵倒されながらのセックスもありました。
自分がそんな風に扱われるような無価値な人間だと、
あの頃の私は 骨身に刷りこまれてしまっていました。


病気で体が動かず辛いとき
夫から “怠けたいんだろ” と言われました。


不倫の件で言い争いが耐えない時期は
“お前は気持ち悪い”
“出ていけ。顔も見たくない” と言われました。



それぞれ思い出せば嫌な気分にはなります。

でも 今にして思えば みんな、私に甘えていたのかなぁ... と思います。


その当時の彼らにとって、私は傷つけても構わない相手だったのか、
傷つけるつもりはまったく無かったのかのどちらかでしょう。


父だって、私が性転換でもしようとすれば止めたでしょうし、

レイプ犯の彼だって、私を罵倒することによって自分を底上げしていたのです。

あれだけ離婚だ離婚だと騒いでいた夫も、
私から「別れたい」と言ったとき、抜け殻のようになってしまいました。



言葉には二種類あって、

心にもない言葉 と
心からの言葉 があるのです。


特に話し言葉は、深い思慮を伴うことなく、反応的に出てくることが多いです。
ときにはそれが、その場限りの楽しいお喋りに発展することもあります。
そんなときは、自分の言葉の責任なんて考えないで、
打てば響く太鼓のように、ボケたりつっこんだりして、解放的なひとときが過ぎていきます。

笑いが笑いを生む、そんなポジティブな言葉の応酬と同じように、
ネガティブな場面でも、言葉を選ぶ理性がとんでしまうことがあるのです。

本人のコントロールをいつの間にか離れて
石つぶてから手榴弾へ、手榴弾からバズーカ砲へと、
相手に大きなダメージを与えることに、どんどんやっきになってしまう。

何か大きな、抗いがたい力によって、
知らぬ間に、勝ち負けを争うゲームにハマってしまっているのです。



言った本人も忘れているような言葉は、
それだけ何も考えないで発しているということです。
相手にインパクトを与えたいだけのために、
相手の優位に立ちたいだけのために、
無意識に、相手の一番弱いところを突いてくる人もいます。
だけどそんなこと、本当に強い人間に必要なことでしょうか。

言葉の暴力を多用するのは、弱い人間です。
自分の中の悪魔に、簡単に乗っとられてしまうような人間です。


無自覚に吐き出した言葉は 言った本人が一番早く忘れます。


相手にとっては、それほどの重さしかない言葉。
そんな不用意な言葉に、いつまでもとらわれているのは無意味だと気づきました。


言葉によって傷ついた自分の心は、優しく抱きしめます。
その傷を、復讐心に結び付けることは決してしたくないな...と、そう思います。

相手に、自分のしたことを、「思い知らせてやりたい」のではなく、
自分のしたことの意味を、「心から分かってもらいたい」のです。

そのために必要なのは、より大きなバズーカ砲ではないんですよね。




...そして、自分に立ち返ったとき、
私が今の時点で、今後心がけたいな と思っているのは
ストレートでありたいということ。

直球...というと、強い言葉を投げつけること と思われるかも知れないけど、
そういうことではなくて。

なるべく本音に近い言葉でコミュニケーションしたい。

本音は弱音、ということもある。
強い自分を演出しようとして、心にもない言葉を不用意に使うことはもうしたくない。
弱音は弱音のまま、素直に相手の前に差し出したい。

強さを競いたいとか、
相手の優位に立ちたいとか、

以前は自分の望みさえも、勘違いしていたけれど。



ほんとうは 「分かってほしい」 「伝えたい」 それだけなんだよね。



それなら、伝わる言葉を選ぼう 大人として。

建設的な会話をしよう。



人を傷つけた私の言葉を、私自身の力で変えていこう。

大切な誰かとの無益な戦争を まず私から 失くしていこう。
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by marca-mia | 2006-01-09 18:18 | 思うこと・自分


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