余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。
悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、
悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。
    

                               正岡子規 「病牀六尺」より







数年前のあるとき、NHKのドキュメンタリー番組を観ていました。
その中で 永平寺の住職でいらっしゃる宮崎奕保禅師が、
インタビューに応えて この正岡子規の言葉を引用されたのです。

正岡子規の「病牀六尺」は読んでいないのですが、
もしかしたら子規自身は、
厳しい心境で この言葉を書いたのかも知れません。

けれども私は
禅師の穏やかな 味わいのある訛りにのって、この言葉に触れたせいなのか...
誰かにやさしく肩をだかれたように感じて、
とてもとても あったかい何かに包まれたような気がして
涙が、胸から喉へ 喉から鼻へ、鼻から目へと湧いてきて
あとはもう こぼれるままにして泣いていました。

こんな言葉に感じるようになるとは、20代の頃は 思いもしませんでしたが。



寄せくる波に抗うことなく
ゆられるままに浮かんでいられるような
流れに流されながら
流れていくことを楽しめる自分がきちんとあるような
そんな人になりたい...そんな思いと

そんな人であることの大きさ
そんな人であることの困難さ
そんな人であることの勇気
そんな人であることの気持ちよさ

それらを垣間見た今の自分が、
癒され、ゆるされて生きていることの ありがたさと

同時に色んな思いがないまぜになって。



平気で生きているということは
悲しさにも
辛さにも
感謝にも
感激にも
喜びにも似て。

孤独感にも
一体感にも
頑張りにも
手放しにも
あてはまるような気がして。



今でも 思い出すと、じんわりと泣いてしまう言葉です。
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by marca-mia | 2006-03-17 10:46 | きらめく言葉たち


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