存在価値(ものすごく長くなっちゃったぁ...)


自分の存在価値を感じること。

ここに、男女関係の落とし穴があるように思う。

自分の強さ
自分のかしこさ
自分の寛大さ

これらを感じるとき、人は高揚している。
自分にそれらが備わっていると感じられるとき、
自分の存在価値を信じられる。

自分の存在価値は、数字ではかれるようなものじゃない。
だから、自分より弱い人間、もしくは愚かな人間が目の前にいてくれると助かる。
自分自身の強さ、かしこさ、寛大さは、増えたり減ったりしてるわけじゃないのに
相手が自分より弱々しくいてくれたり、頼ったり、尊敬してくれたりすると
にわかに自分の存在価値を信じられて、麻薬のような心地よさを感じる。


これは、不倫でも夫婦間でも 男でも女でも 同じだと思う。


強いだけの人間はいない
かしこいだけの人間もいない
寛大なだけの人間もいない

それなのに。


自分の中に当たり前に備わっているはずの、

強さと裏腹の 弱さを
ずっと賢いふりをしてきた 愚かさを
寛大な自分をしか許せない 狭量さを

そこにあるのに、見たくないのだ。
感じていながら、認めたくないのだ。


その不安の裏返しで、相対的に自分が優位に立てる関係を求めていく。

自分が優位だと思える相手を選ぶこともあるし、
相手によらず、無理やりそんな関係に持っていこうとすることもある。

たとえば、相手の振る舞いに自分が傷ついたとして
「わたしは傷ついた」と言うことができない。

傷つくのは自分の弱い部分(=繊細さ)であるのに、
「あなたは思いやりがない、人の心が分からない」と、相手を裁く。
弱さをかしこさにすりかえてしまうのだ。

強く、かしこく、寛大である自分。
これらをプラスイメージととらえ、
それ以外の自分は出てこないようにしてしまう。

弱く、愚かで、心が狭い自分。
これらはマイナスのものとして、
全部、何らかの細工をして、
強さ、かしこさ、寛大さの いずれかにすりかえられてしまう。

弱さも、愚かさも、狭量さも、悪いものじゃないのに。

弱いからこそ、強くなれるのに。
自分の愚かさを知っていることが、かしこさなのに。
心の狭さは、自分のこだわりの部分。こだわりは、個性でもあるのに。

自分の存在価値をおびやかす(と思い込んでいる)ものを
常に自分の中に抱えながら 見てみないふりしているのだから、
その人の存在価値は、いつまでも不安定で、他人を通してしか確認できない。

そもそも、強いこと、かしこいこと、寛大であること
=自分の存在価値 であると勘違いしているところから、狂いが生じている。

その人それぞれの生い立ちや環境と関係があるとは思う。

子供の頃、
転んでも泣かなかったり、兄弟に物を譲ってやったり、成績が良かったりしたとき
偉いね~、と褒められる。

認められた心地よさと引き換えに、失っていくものがある。

自分の存在価値を他人に決めてもらおうとする依存が芽生える。

それは当たり前のことだ。

誰もが心当たりのあることだ。

大人も子供も、そこまで深く考えもしないし、意識もしない。

そして、それでも別にいいのだ。

自分の存在価値を自分で獲得していく旅が人生ともいえるのだから。


自分の中の弱さ、愚かさ、狭量さを認めてしまったら、
向上心もなくなり、堕落した人間になってしまいそうで怖いのだろうか。

それなら、強く、かしこく、寛大であることを目指しつづければよい。

自分の弱さ、愚かさ、狭量さを許し認めることと
強く、かしこく、寛大な人間を目指すことは 矛盾しない。

自分の弱さを認められる人は、他人のそれも裁きたくなくなるからだ。
自分の愚かさを許せる人は、他人の愚かさにも寛大になれるからだ。

見たくない、見たくないと思っているから、
目の上のたんこぶのように、それはいつも身近にあって、意識されている。

それならいっそ、目の前に持ってきて、他人事のように、じっくりと眺めてみればいい。

自分の弱さ、愚かさ、狭量さが、絶対、可愛く見えてくるはず。



それは、ハンディキャップのある人が、
自分に備わった障害を受け入れ、認めていく過程と似ているかも知れない。

障害を受け入れ、ハンディキャップとともに生きていく覚悟がある人は
他人に対して素直に協力を求め、それに感謝し、自分を可哀想とは思わないだろう。
それとともに、自分の可能性を広げていく努力も怠らないだろう。
リハビリの必要があればするし、自分の権利を主張することもできるだろう。
障害を受け入れるという着地点があってはじめて、
その後の人生のために、努力していく意味を見出せるのだ。

だけどそこへ辿り着くまでの過程では、
自暴自棄になることもあるだろうし、他人を恨むこともあるだろうし、
わが身を消し去りたくなることもあるだろう。
むしろそこを通るからこそ、トンネルの向こうへ行けるのだろうし、
その過程こそが、まだ見えぬ光ある処へと手をひいていってくれるのだろうと思う。




相手の前で、強く、かしこく、寛大な自分しか見せてこなかった人は
そのうちの半分は、弱さ、愚かさ、狭量さをすりかえたものかも知れない。
そこへ注意を向けていると、どんなすりかえパターンにはまりやすいかが見えてくる。
いつもいつも同じようなパターンを繰り返しているなら、
意識してそれを壊していく必要がある。


自分の強い面も弱い面も、素直にバランスよく出していこう。


相手のウケを狙って、期待される役割を返すことはないし、
自分も相手に対して、ある役割だけを押し付けていかないようにする。

弱く愚かな相手を許したり支配したり指導することで
相手に密着していたいとの思いからフリーになること。

“相手の期待する自分”ではなく、“ありのままの自分”であること。

今まで出してこなかった弱い私、馬鹿な私、心の狭い私、理論的でない私を
素直に相手の前で解き放ってみる。

しばらくは、慣れないやりとりにギクシャクしても、
そのうち、どんな自分を出しても大丈夫、という安心感につながっていく。

今まで出せなかった自分を出すと、
相手が慣れない状況にうろたえて拒否されることがある。
それでも、相手に求めず、相手の反応に動揺することなく、
自分の色んな面を出していく練習をする。
そんな自分を見せているうちに、相手も変わってくる可能性がある。

しばらくは、弱音を吐くつもりが 相手への不満や愚痴になってしまったりと、
うまく行かなかいこともあると思う。

でもきっと、素直に表現できるときがくる。

自分の七色の感情を、強さも弱さも含めて認めていくことで
他人によらない、自分の存在価値を見出すことができる。

そのためには、
自分自身が、出しにくいと感じる部分、相手に対して認めたくない部分こそを、
意識的に出していくことだ。

何が正しいかの論議にすりかえてはだめ。

七色の自分を出していく過程では苦い思いをたくさんする。
すりかえをやめたつもりが、
すりかえ先を変えただけの自分に気がついて愕然としたり
本音でない言葉でいさかいになって後悔したり。


そこで引き返してしまう人は多い。


それは、相手との慣れないやりとりに疲弊し、
争いごとや、問題や、負の感情が浮上してくるのを見て、
この方向は間違っていたのだと思ってしまうからだ。

不器用な人は、相手とのかねあいを見て出し方を試行錯誤することができずに、
極端な形で出すか、でなければ、出すのをやめてしまう。

そんなときは、どこかすっきりしない。
相手に対しても、自分に対しても、どこかもやもやした不快感が残る。
出し切れなかった部分が、心にとどまって、胸の内側でとぐろを巻く。
挫折感を感じたくなくて、そのもやもやをまた相手のせいにしたり、
自分の心を殺してしまう人もいる。


私は、多くの人に、そこをこそ、超えてほしいと思う。

どんな道を行くか、何を選びとるか。

そんなことは結果として自然に決まってくるものだと思う。

不倫とか、夫婦とか、そんな狭い枠の話でもない。


望んだ結果にならなくても。
逆に、思いがけず幸運に事が運んだとしても。

どちらにしたってこの先の人生がある。

表面的な関係が、望んだ結果になろうと、思い通りになろうと
自分の中で何も変わっていなければ、
いずれまた自分の中から問い直される日が来る。

もしも、世界中の人があなたを愛してくれたとしても
自分で自分を認められなかったら、あなたは淋しいままだろう。

もしも、あなたが誰かを愛していても
自分を愛することなく、彼に満たしてもらうことだけにすがっていれば、
彼は、あなたにほんとうに愛されている気はしないだろう。

あなたが自分の体面は保ったままで、相手の変化を求めている限り。

自分の弱さも愚かさも狭量さも、相手の前にさらけだして拒否されたら、
その時こそ、そんな自分を許してあげよう。

人間は弱いけど強い。愚かだけどかしこい。狭量でもあり、寛大でもある。

それは、あなたも私も同じ。

そう思える日まで、がんばってみようよ。


私も、その感じがもっともっと自然に身につくまで、トライしつづけていこうと思ってる。

それが、自分も他人も楽にしてあげられる道だと、今は信じられるから。



今、苦しんでいる人へ。私から言えること。




...と言いながら...

私は何となく知っている。


今までの私を振り返っても、本や他人の意見で、自分が変わる訳じゃない。
本を読んで “そうそう、まさに私が思っていたことだ~!” と喜んだこともあったけど...。

それは今思えば、もう既に自分がその位置へ辿りついていて、
あらためて 誰かが言葉で言い表したものを見て 確認できた喜びなのだ。
そして、誰かの言葉を読んで“頭で”分かったとしても、
自らが 行動を含めて“実際に変わっていく”までには、かなりの隔たりがある。

だからこんなことを書いていながら、私が望んでいるのは
“私も同じ思いです”と、誰かが言ってくれることなのかも知れない。

そのことで私が感じる喜びは

苦しみを抜けられた誰かを祝福するものか

それとも、

他人によって自分の存在価値の確認ができたという一人酔いか...?



どっちにしても、自分って愚かで可愛いものだ ^ー^
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by marca-mia | 2005-08-05 01:08 | 思うこと・自分


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