経過報告


病院で検査してもらった結果 バセドウ病が再発していました。
バセドウ病は原因が特定されていない病気で「完治」というものが無く、
いったん症状がおさまっても いつ再発するか分からないのです。
そういうことは、もちろん頭では分かっていたのですが...。
薬と縁が切れて数年。
すっかり「自分はもう大丈夫」と思いこんでいた私には、かなりショックでした。

幼い頃から原因不明の病気ばかりで もう慣れっこになっているとは言え、
病院からの通知を見て泣いてしまいました。
「またか...。」そんな気持ちでした。










再発を知る数日前、夫の父方の叔父が亡くなりました。
その叔父のお通夜をとりおこなった日に
なんと夫の母方の叔母も亡くなりました。
4日連続でお通夜と告別式を2回ずつ繰り返しました。


そのバタバタの狭間に、バセドウ病再発の通知を受けとりました。



叔父の告別式で火葬場に行ったとき、


「火葬場に行くのはかなり久しぶりなんだよね。
 どんなだったか忘れてしまったわ。」


と私が言ったら、夫は


「そうか~俺はばあちゃんのときのを覚えてるけど
 焼かれるまでは皆泣いたり、しゅんとしたり、悲壮にしてるんだけど
 骨になって出てくるとガラッと雰囲気変わるんだよね。
 何ていうかね、焼かれる前はまだ人格があるような気がするんだけど
 骨だけになると『ああ逝っちゃったんだな』て自然に思える感じ。
 極端な言い方すると、もう『人』じゃなくて『物』になってるみたいな感じかな。」


と言っていました。



実際夫が言ったとおり
叔父がお骨になって皆のところに戻ってきたとき
それまでとは打って変わって 場の空気が和やかになりました。
水気のある肉体を脱ぎ捨てた叔父さんの 乾燥したお骨は
みんなの湿っぽい涙まで 乾かしてくれたかのようでした。


夫と一緒に、笑顔の絶えなかった優しい叔父さんの
たぶん足の付け根と思われる大きな骨を、骨壷におさめました。


私も、棺を取り囲んで涙でお別れしたときとは
心境が全く変わっていました。



「上手く出来てるね。」と夫。



遺族にとって、亡くなった人が骨になることは
とても大きな意味があるのだなと感じました。


ここまでやってやっと納得がいくというか、
「あの人は死んでしまったんだ。もうこの世にはいないんだ。」
と受け入れることができる。


これからも喪失感はつづいて、何度も何度も泣いてしまうのだろうけど
葬儀の段階で まずはひとつ、心の整理が進むように
お葬式というのは 上手く考えられているのかも知れないなと思いました。




人間にとって「肉」というものは大きな意味を持つものなんだなぁ。
生命力というか生々しさというか、生きてる証みたいなもの。



骨は綺麗だ。



...............。




肉という煩悩をぶらさげて、私たち人間は生きているんだ。


どんなに体を浄化しようとしても、人間の肉体には 常に澱みがある。


食べ物をとり入れ、消化し、排泄しても
また新しい食べ物が入ってきて、消化が始まる。


心臓は休みなく動き 新しい血液をつくりだすけれど
体を巡る血液のいくぶんかは、要らないものを含んでいる。


酸化し、腐敗に向かいながら
それを追いかけるように、細胞は新しく入れ替わる。



清濁混じりあいながら生きているのが人間なんだ。


「汚れ」を抱えているその力こそが、生命力なのかも知れないな。



私は生きている限り、この肉をまとって歩きつづけるんだなぁ。
でもいつかは、この体を離れて自由に飛んでいく。
そのとき私は この肉体を 惜しむだろうか。
スッキリと別れを告げることができるだろうか...。


肉体があることによって得られるはずの幸福感を
私はまだ充分に味わっていない。


重い体、思い通りにならない体、共に苦労してきた体だからこそ、
私はこの体と離れることを寂しく思うような気がするなぁ...。


いつかお別れするその日まで、
少しでもこの体にしっくりと馴染んであげたいな。
この世を歩ませてくれたこの肉体と 少しでも調和できたらいいな。


病気が良くなるにしろ、ならないにしろ
様々な気づきを与えてくれたこの体に、何かの形で報いてあげたいなぁ。




叔父叔母の死に接して、そんなことを考えました。



つらつらと...言葉になるところまで。



言葉にならずに浮遊している思いは そのままに。
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by marca-mia | 2006-09-06 23:28 | 思うこと・自分


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