受けとる


以前に書いた記事親とか子とか(3)の中で
「愛とは、幸せを配る行為」ではないか...という考えを書きましたが、
実はこれを思いついたとき、
同時に もう一つの答が頭に浮かんでいました。


そのもう一つの答とは、
「愛とは、幸せを受け取る行為」なのではないか...というものです。








これは

「幸せの姿かたちを決め付けないこと」であり
「幸せを感じとるセンサーを磨くこと」であり
「与えられた幸せを喜ぶこと」なのだろうと思います。


これは「幸せを配る行為」と同じく、
「愛を学んでいく道のり」なのだと思っています。


自分自身が幸せになろうとすることによって初めて
「幸せを配る人」になれるように...。


「幸せを受け取る」とはその逆...つまり、
相手の幸せを願えるようになることなのだと思います。


自分以外の人は、自分の基準とは違う幸せを見つけていく。
その幸せを「おすそわけ」してもらったら、自分の基準とは違っていても
受け取ることが、愛と言えるのかなと思っています。


たとえそれが、自分の欲しているものでなくとも
たとえそれが、自分が相手に与えたものより小さいとしても
その価値を見つけ 認め 喜んで受け取る。


そんな風に言うと、それは
やせがまんや、盲目的な忍従や、自尊心の低さの現れ ではないかと
思う人がいるかも知れません。


でも私の考えるイメージは、ちょっとそれらとは違うのです。



「幸せを配る行為」と「幸せを受け取る行為」はクロスしていて
ある程度「配る行為」が身についてくることで、
「受け取る行為」も、徐々にできるようになっていくんじゃないかなと思っています。


「配る行為」が身についてきているということは
他人に満たしてもらおうという姿勢が無くなりつつある段階ですから
相手の言動によって いちいち傷つくことはありません。
自他の区別がついているぶんだけ、相手の状態がよく見えています。


相手が、相手のペースで、相手の基準で 幸せになることを
焦らず 急かさず あたたかい目で見守ってあげられます。


ときには、二人の幸せが重なることもあるでしょう。
そんなときは素晴らしい偶然に感謝することになるでしょう。


自分の幸せの基準に固執して、相手に合わせさせていたら
そんな喜びは得られないかも知れませんね。
ひとりよがりの幸せは、気付いたときには とても虚しいですもんね。



今の私は 夫との関係では
幸せを配ることも、受け取ることも 上手くできないでいるけれど、
直感的に「これは真理だなぁ」と感じています。
そして、この思いつきを 思い描くことができた自分が
ちょっと嬉しかったりしています。


とりあえず思いついたからには、
うんと時間がかかっても、たどり着けるような気がするのです。




私 幸せにならなくっちゃ。

そのために出来ることなら、なんでもしよう。

いっぱい自分をゆるして、いっぱい慰めて いっぱい誉めてあげよう。

小さな喜びを 見つけていこう。

壮大な目標のために、日々少しずつ 満足できる瞬間を増やしていこう。

ちょっとした工夫で楽しめるならば、どんどん工夫していこう。




心の底から 笑える自分になれますように。

あなたに 幸せのおすそわけが できますように。




その日まで つくり笑いなんてしない。
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by marca-mia | 2007-02-26 18:34 | 思うこと・自分


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