直感を大切に


行動して、感じて、書いて、気づいて、また行動して。
そんなことの繰り返しで数年が過ぎました。


ときどき、サッと光が差すように、何かが閃くことがあります。
ふわっと答えが与えられることがあります。


大抵は、その答えに根拠なんてなくて
私は閃いたそのままを、ここに記すだけです。


自分が考えて考えて導き出したというよりも
天上から私の胸に、ダイレクトに舞い降りてきたようなその閃きを
たいてい私は無条件で信じています。


以前の記事、愛は......かもしれない。で書き表した思いも、
ふいに与えられたプレゼントのように胸に響いた、“素敵な思いつき”のひとつでした。



>アルコール中毒の患者は、
>ほんとうに欲しいものを、アルコールにすりかえる。
>お酒を飲んで、満たされたように錯覚する。
>錯覚にすぎないものは、一時的な陶酔をもたらしても、すぐにまた不安を呼び起こす。
>不安になってまたアルコールに救いを求める。

>私たちが、愛と呼んでいるもののうち、
>どれがアルコールで、どれがほんものの愛だろう?
>ほしがって、与えられたものは......違うカモシレナイ。



自分で書いたこの言葉が真理であることを
今の私は すっきりとした納得とともに、心にしみこませています。







人生には色んな問題が私たちを待ち受けているけれど
結局のところ「愛されているという実感」があれば
人は かなりの部分で満たされて生きることができると 私は思います。


「自分は充分愛で満たされている」と常に感じられることができれば
同じ場面、同じ環境でも、人の幸福感は大きく違ってくると思います。


でも、以前の私は「愛で満たされる」ということの中身について
大きな錯覚をしていたように思います。


その錯覚とは

・愛には、物体と同じように質量があるという思い込み
・愛の供給がストップすると、自分は生きていけないという恐怖感

だったと思います。



愛に物量があると思い込んでいたから......、
愛されないままに人を愛し続けると、
自分の中の愛は枯渇してしまうような、そんな焦りがありました。
自分が枯渇してしまう前に、早く相手から愛を回収しなければ、
向かう先は破綻しかないと思い込んでいました。


けれどそんな風に焦って求めていたそれは
今感じている“愛”とは別のものだったと思います。


「優しい態度や言葉」
「相手を理解しようとする努力」

それらは、もちろん大切なことだと思います。
相手にそのような姿勢を求めることも、悪いことではないと思います。


けれど、求めたものが返ってこなかったときに
激しい愛情飢餓感を感じるのならば。
また、自分ばかりが与えることに、苦痛を感じるならば。


そこには愛に対する誤解があるのかも知れません。
私がそうだったように......。




目の前に他人がいれば......
その人が、かつて自分に陶酔感をもたらしてくれた相手であればなおさら。
その人からしか愛を得ることはできないと 私たちは思ってしまいがちです。


けれど、他人から奪いとろうとする人の前に、
愛は けっして姿を現さないのだと思います。
愛が私たちを拒んでいるのではなく
私たちがその姿を見ようとしていないために......。



“誰かが誰かに優しくする”とかいう 人間の力量を超えた、
それでいてシンプルな“愛そのもの”という存在があって
それは誰かの所有物でもなければ、お金のように貯金できるものでもなく。


与える意志と、受けとる意志によってのみ、
もたらされるものだったのだ......と、今の私は思います。


どんな絶望的な状況の中にも“愛”はあり
それはまるで空気のように
自分が深く深く息をすることで 受けとることができたのです。



誰かと誰かが同じ空間にいて
そこに愛が流れていないように感じられるときでも
自分と相手とに、等しく愛は注がれている。


私を満たしてくれるものは、私の中に入ってきた空気のような愛。
息を吸い込むと、自分の一部のようにも感じられ。
息を吐き出すと、体という輪郭から 解き放たれたようにも感じられ。


自分であって自分でないものが
私を助けてくれていると感じられたのは
こうした愛の性質によるものかも知れません。


迷える私たちに幸せを配ってくれている大きな愛という存在がある。


たとえそれが、いっとき苦しいもののように感じられたとしても
必要なプロセスを経たのちに、ほんとうに自分が求めていた幸せに近づかせてくれる。


こちらが扉を開きさえすれば、
その愛は 私たちの内部に 自由に出入りするのかも知れません。
そう......コントロールを手放し、受け入れる意志さえあれば。



私はこの真理を、また忘れてしまうかも知れません。
けれど ここへ書き留めておくことで思い出せるかも知れません。




面白いことに、「愛は......かもしれない。」を書いたのは
ちょうど去年の今頃でした。


不思議な符号を感じます。
春、3月は、私にとっていつも何かしらの感慨をもたらしてくれます。


夏に向かって行動的になり
秋が深まるにつれて思索が深くなり
冬は、何らかの壁にぶつかり
春の訪れとともに、新しい自分を発見する。


何となく、そんなサイクルを感じます。



未来の自分のために...今年の春はこの記事を残します。
[PR]
by marca-mia | 2007-03-22 18:26 | 思うこと・自分


<< お休みします。 スペザーノの言葉 >>