カテゴリ:思うこと・自分( 37 )

被害者=傷ついている人(2)


小学5年生のとき 同級生のS君のお母さんが亡くなった。
私はただ 病気で亡くなったということしか知らず
S君にかける言葉も知らず
S君自身、普段と変わらない様子だった。
変わらず接してもらうことがS君の望みだろうと思っていた。

ある日、クラスメートの誰かの家で集まって遊んでいたときのこと。
(S君のお母さんが亡くなってから、半年程経っていたように思う。)

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by marca-mia | 2007-02-24 11:52 | 思うこと・自分

親とか子とか(3)


「私の子供なのだから、あなたはこうでなければならない」
「私の親なのだから、あなたはこうであるべきだ」


私たち親子は、長い間 そんな関係であったと思います。


母は私が、そこから外れることを許さない
私は母が、そこから外れると傷つく


お互いに、要求する姿が前提にあるから 怒り、傷ついてきたのでしょう。


けれど、一歩ひいた目で見ると...。


「...ねばならない。」とか
「...であるべき。」という言葉は、愛を表現するには不似合いですね...。


愛は、強要して得られるものではないのに。
愛が欲しいはずの私たちは
「愛のようなもの」を奪い取ることに熱心だったのかも知れません。

つづき...また、長くなりました^^;
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by marca-mia | 2006-12-17 22:58 | 思うこと・自分

親とか子とか(2)


前回の記事で、負の連鎖の話をする前に
私は下のような問いかけをしました。


人間は 愛情を期待した人(=親)から受け取れなかったとき
そこで生まれた飢餓感を他人から埋めてもらわなければ
満たされることはないのでしょうか。


相手を変えては 期待し、裏切られ、期待し、裏切られ...
その繰り返しで生きていくしかないのでしょうか。


私の今の思いを 結果から書いてしまうと
どちらの問いに対する答えも“NO”になりそうです。

つづき...長いです。
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by marca-mia | 2006-12-05 20:00 | 思うこと・自分

親とか子とか(1)


母との一夜
momonekoさんのコメントにお返事を書いていたら長くなり、
記事にしようと思っているうちに間が空いてしまいました。

かなり時間が経っていますが、アップします。

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by marca-mia | 2006-11-28 13:40 | 思うこと・自分

母との一夜


前回 前々回と、本の紹介とともに母への思いを綴りましたが、
その勢いで...というわけではないですが...母とのこと。

今頃ですが、お盆に帰省した際のことです。
母とじっくり話す機会がありました。

うちは三人姉妹(私は中っ子)なので、
帰省中はいつも姉と妹と三人で賑やかに話し込んだりしていて
なかなか母と一対一の話ができなかったりするのですが
今年は姉たちと日程がずれて 一日だけ、母と二人の夜を過ごせました。

続き...長いです。
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by marca-mia | 2006-10-30 01:43 | 思うこと・自分

経過報告


病院で検査してもらった結果 バセドウ病が再発していました。
バセドウ病は原因が特定されていない病気で「完治」というものが無く、
いったん症状がおさまっても いつ再発するか分からないのです。
そういうことは、もちろん頭では分かっていたのですが...。
薬と縁が切れて数年。
すっかり「自分はもう大丈夫」と思いこんでいた私には、かなりショックでした。

幼い頃から原因不明の病気ばかりで もう慣れっこになっているとは言え、
病院からの通知を見て泣いてしまいました。
「またか...。」そんな気持ちでした。

数日を経て...今の気持ち。
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by marca-mia | 2006-09-06 23:28 | 思うこと・自分

愛は......かもしれない。


今日、ふと思ったんだ。
私は損得にとらわれていたんだな~って。


もらうことばっかり考えて
与えるばかりじゃ損のような気がして。


けれど、愛は無尽蔵にあるんじゃないかなって思ったの。
愛は無尽蔵だっていう その思いつきを
私の無意識は必死になって抵抗していたんじゃないかって。


すべては「カモシレナイ」の世界だけど。
なかなか面白い「カモシレナイ」だと思った。
心の中に電球が灯った感じ。
(漫画なんかでアイディアがひらめいたとき、電球が灯る、あんな感じ^^)


人は、愛する生き物。
愛は枯れない。
愛は 与えても与えても なくならない。(カモシレナイ)


もしかして、この「カモシレナイ」をとってみたらいいんじゃない?
本来人間は愛にあふれているんじゃない?
足りないような気がして、ちょうだいちょうだいって言ってきたのは
実は大いなる錯覚だったんじゃない?


与えたら、愛の電池がなくなってしまうと思い込んでいた。
違うんじゃない?


神様は、ちゃんと私の体を通して、
メーターがゼロにならないように
ずっとずっと愛を補給してくれる。送りつづけてくれる。(カモシレナイ)


そんなこと 確認するすべなんてない。
確認できないもんだから、否定してきたのじゃない?
ずっと「カモシレナイ」をくっつけて、信じようとしてみなかったんじゃない?


ならば、ほしがるのをやめてみるか。


ほしがる行為が 不安をかきたてて、
「愛は有限だ」という思いを補強してきてしまったのカモシレナイから。


アルコール中毒の患者は、
ほんとうに欲しいものを、アルコールにすりかえる。
お酒を飲んで、満たされたように錯覚する。
錯覚にすぎないものは、一時的な陶酔をもたらしても、すぐにまた不安を呼び起こす。
不安になってまたアルコールに救いを求める。


私たちが、愛と呼んでいるもののうち、
どれがアルコールで、どれがほんものの愛だろう?
ほしがって、与えられたものは......違うカモシレナイ。


もしかしたら...。


この世に、私という存在が生まれたときから


ずっと それは ココにあって。


私の目が曇っていたせいで、視界に入らなかったのカモシレナイ。



欲しがらなくても、求めなくても。


私は、無限の 無条件の愛を 持っていた...!カモシレナイ!?




だとしたら......どうする?



カモシレナイ......取ってみる!?
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by marca-mia | 2006-03-17 20:51 | 思うこと・自分

言葉について考えている(3) ~他人の言葉に傷つきやすい人へ~


他人の言葉に傷ついた経験は、きっと誰しもあるんではないかな。

それが親しい間柄、遠慮のない間柄であればあるほど、
お互いの心を刺激しあって「言ってはならないひと言」が出てしまうことってある。

私も過去を振り返れば、「言葉にまつわる嫌な思い出」が数々ある。

母から、教師から、夫から...。

ひとつひとつ振り返ると、
言葉というものはなんて大きな力を持っているのだろうと思う。

教師から受けた体罰よりも、嫌味たっぷりのひと言の方がよほど傷になっている。

もちろん私だって。

こんなに言葉が大好きで、
大人な言葉遣いを目指していこう、と意識はしているけれど...、
過去にデリカシーのない一言や二言...、
いや、自覚してないのも含めたら十言や二十言...、
言葉で人を不快にさせたことは、いくらだってあるだろう。

もし、私の言葉で傷ついた人たちが、
“あのとき△□○・・・って言われて傷ついた~!”
って苦情を言ってきたら、きっと色々言い訳するのだろう。

“いやぁ~あのときはこんな気持ちでさ、ついつい...”
“あのときああ言ったのは、こういうことを分かってほしかったんだよ~”

などなど...。




そう、言葉には

その裏に隠された思いがあるんだよね。^-^



発した本人も気づいていないけど...
人を傷つけるような言葉は、
その裏に、その言葉を発した真意が隠れている。

伝えたいのはその真意の方なんだけど、
その真意が自分自身にもいまいち見えていない。

だけど、伝えたいという気持ちだけは強くて、
強すぎるあまりに、何でもいいから相手の心を揺さぶろうとして、
強い言葉をぶつけてしまうんだ。

自分でも何だか分からない何かを分かってほしいから。




私たちはそんな風にして、
小さな子供と変わらないゴネ方を、大人になっても繰り返している。

子供の頃と変わったのは、
一見筋が通ったような理屈を言えるようになったこと。

自分の真意とかけ離れたことでも、
それなりにつじつまの合う言葉を組み合わせられてしまうこと。

子供は理屈にならない理屈でゴネるけど
大人になった今、理屈になる理屈でゴネることを覚えてしまった。

その結果、人と人の間に生まれたのは、
数え切れないほどの嘘や誤解や思い込み。

自分の言葉で自分もだませてしまうものね。

激しい感情の中で放ったひと言は、
放った自分自身も、それが本音であるかのような気分になってしまう。
だからこそ、受け取るほうもガーンとくる。
“アタシのこと、そんな風に思ってたんだ...!”とショックを受ける。




私が生まれたとき、男児を望んでいた父親はガッカリして
“な~んだ、女かよ”と言ったそうです。
子供の頃から、何度も何度も「笑い話」として聞かされました。
皆が笑うのを、複雑な思いで眺めていました。


23歳のとき、レイプ被害を受けた相手からは、
“お前は生きてる価値ねえな” と言われました。
体型を罵倒されながらのセックスもありました。
自分がそんな風に扱われるような無価値な人間だと、
あの頃の私は 骨身に刷りこまれてしまっていました。


病気で体が動かず辛いとき
夫から “怠けたいんだろ” と言われました。


不倫の件で言い争いが耐えない時期は
“お前は気持ち悪い”
“出ていけ。顔も見たくない” と言われました。



それぞれ思い出せば嫌な気分にはなります。

でも 今にして思えば みんな、私に甘えていたのかなぁ... と思います。


その当時の彼らにとって、私は傷つけても構わない相手だったのか、
傷つけるつもりはまったく無かったのかのどちらかでしょう。


父だって、私が性転換でもしようとすれば止めたでしょうし、

レイプ犯の彼だって、私を罵倒することによって自分を底上げしていたのです。

あれだけ離婚だ離婚だと騒いでいた夫も、
私から「別れたい」と言ったとき、抜け殻のようになってしまいました。



言葉には二種類あって、

心にもない言葉 と
心からの言葉 があるのです。


特に話し言葉は、深い思慮を伴うことなく、反応的に出てくることが多いです。
ときにはそれが、その場限りの楽しいお喋りに発展することもあります。
そんなときは、自分の言葉の責任なんて考えないで、
打てば響く太鼓のように、ボケたりつっこんだりして、解放的なひとときが過ぎていきます。

笑いが笑いを生む、そんなポジティブな言葉の応酬と同じように、
ネガティブな場面でも、言葉を選ぶ理性がとんでしまうことがあるのです。

本人のコントロールをいつの間にか離れて
石つぶてから手榴弾へ、手榴弾からバズーカ砲へと、
相手に大きなダメージを与えることに、どんどんやっきになってしまう。

何か大きな、抗いがたい力によって、
知らぬ間に、勝ち負けを争うゲームにハマってしまっているのです。



言った本人も忘れているような言葉は、
それだけ何も考えないで発しているということです。
相手にインパクトを与えたいだけのために、
相手の優位に立ちたいだけのために、
無意識に、相手の一番弱いところを突いてくる人もいます。
だけどそんなこと、本当に強い人間に必要なことでしょうか。

言葉の暴力を多用するのは、弱い人間です。
自分の中の悪魔に、簡単に乗っとられてしまうような人間です。


無自覚に吐き出した言葉は 言った本人が一番早く忘れます。


相手にとっては、それほどの重さしかない言葉。
そんな不用意な言葉に、いつまでもとらわれているのは無意味だと気づきました。


言葉によって傷ついた自分の心は、優しく抱きしめます。
その傷を、復讐心に結び付けることは決してしたくないな...と、そう思います。

相手に、自分のしたことを、「思い知らせてやりたい」のではなく、
自分のしたことの意味を、「心から分かってもらいたい」のです。

そのために必要なのは、より大きなバズーカ砲ではないんですよね。




...そして、自分に立ち返ったとき、
私が今の時点で、今後心がけたいな と思っているのは
ストレートでありたいということ。

直球...というと、強い言葉を投げつけること と思われるかも知れないけど、
そういうことではなくて。

なるべく本音に近い言葉でコミュニケーションしたい。

本音は弱音、ということもある。
強い自分を演出しようとして、心にもない言葉を不用意に使うことはもうしたくない。
弱音は弱音のまま、素直に相手の前に差し出したい。

強さを競いたいとか、
相手の優位に立ちたいとか、

以前は自分の望みさえも、勘違いしていたけれど。



ほんとうは 「分かってほしい」 「伝えたい」 それだけなんだよね。



それなら、伝わる言葉を選ぼう 大人として。

建設的な会話をしよう。



人を傷つけた私の言葉を、私自身の力で変えていこう。

大切な誰かとの無益な戦争を まず私から 失くしていこう。
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by marca-mia | 2006-01-09 18:18 | 思うこと・自分

不幸の味


実は人間って、不幸を抱えていたいものなのかも知れない。


カラッと明るくて、何の悩みもなさそうな人を見て
幸せそうだな。あんな風に生きたいな。と思うのと同時に、
何だかこの人何も考えてなさそうだな~~。
って、そう思うことは、ないですか。


「いいね~、幸せで。」って言われたとき。

バカにされた!って思ったり、しませんか。
「これでも色々悩みがあるんだよぉ~。」って返しておかないと、
深みのない人間と思われてしまいそうな、そんな気がしませんか。


誰かの言葉にグサッときたとき。

無神経な人っていいよなぁ~。
人に気を遣わなくていいから、ストレスがなくて...。
(でも私は繊細で人にも優しいから、そんな無神経な生き方、できないわ)
って、小さな軽蔑がはしりませんか。(それは私です)


不幸、というのは、それを抱えているだけで、

私は一生懸命生きてる、って思えてしまう麻薬のようなものかも知れない。


不幸から解放されて、
不幸から自由になって、
不幸はあなたから離れたがっているのに。


料理をつくるつもりが、材料で遊んでしまっている子供のように。


いつまでたっても、別の何かに変化させようとせず、
粘土のようにこねくりまわして、時を過ごし、
混ぜて、焼いて、盛りつけて...の、次の段階に進みたくないのかも知れない。


混ぜて、焼いて、盛りつけて、美しい料理が出来上がるのに、
そんな素敵な出来上がりを想像できずに、
いつまでも、その手ざわりを楽しんでいたいのかも知れない。


そんな風にしている限り、
「料理に取り組んでいる(ように見える)自分」はずっと続くわけで、


「あら、えらいわね!」という誉め言葉でも
「いつまでも遊んでないで、仕上げなさいよ~!」という小言でもいいから

誰かに、「一生懸命生きてる自分」として、構ってもらいたいのかも知れない。


そんな風に言ってくれるような 誰か が見ていなくても、
自分自身が、そう思いたいのかも知れない。





料理とは、科学反応。
形を変え、色を変え、成分変化する、理科の実験のようなもの。


初めての料理にチャレンジするように、思い切って、次の過程へ進んでみよう。


レシピがなくて不安かも知れないけれど、
あなたが自由にアイディアを盛り込める、創作料理だよ。


失敗するかも...?


失敗なんてありえない。
出来たものがあなたの作品。それがあなたの味。


失敗作だと落ち込んだって、大丈夫 ^-^


しっぱいは せいこうのもと と、いうもんね...。
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by marca-mia | 2005-12-30 16:10 | 思うこと・自分

ゆるされること(3)


人生は“ゆるされること”の繰り返しなんだと知る。


私が松本さんの本に出逢えたように
ひたすら前を見て歩く道の途中に
神様があらかじめ用意してくださっていたみたいに
ゆるされるときが訪れる。


私はキリスト教徒ではないので
はっきりと 神様にゆるされる という感覚ではない。

だけど、自分で自分をゆるす というよりは
“何か”に ゆるされた......そんな感覚を持つ。



きっと、世界中のみんなが私をゆるしてくれても
自分で自分をゆるせなかったら
救いはやってこないのだろう



一番最後には、私が残る。
みんながゆるしてくれても、自分自身が残る。
自分をゆるしていない 自分自身が。



どんな条件が整って、そのときがやってくるのか分からない。



自分で自分をゆるせない私に、
天使がそっと舞い降りるように、ゆるし をプレゼントしてくれる。



「自分をゆるします」と百万回となえても 得られることのない 安堵感を
何か大いなるものが もたらしてくれる。

ゆるされた...。という暖かい感情。



私にとっては、他の表現に変えられない感覚。

ゆるされた...。この言葉が、じんわりと、胸にしみこんでいく。
ゆるされた...。その泉が、喜怒哀楽とは別のところにある。




自分の中から湧いてくるようでいて
ひとりよがりとは 違う。




ゆるされることなど期待していなかったから
切に願って叶えられた...!という歓喜とも 違う。




ひとつひとつ

ゆるされていく。

そのたびに




ひとつひとつ

心が軽くなっていく。






私が過去の自分をゆるされたように
夫は自分をゆるすことができただろうか...?





私が性暴力の被害者であったように

夫もまた「男性性」という、目に見えない鎖に縛られてきた、いわば被害者だった。



心の広いパートナーであろうとして、
過去にこだわらない男であろうとして、



夫は自分の心に湧きあがる素直な感情を押し殺してきた。



これからは、夫婦の間だけでも、枠をとり払い、
自分の小ささも、愚かさも、笑って話せるような関係をつくり、
夫に自由になってもらいたい。
自分を解放してもらいたい...と、そう思う。




そんな関係の中でなら、夫はゆるされていくだろうか。




予想はできない。私にも分からない。




私が夫をゆるすのではない。

夫が、ゆるされるのは 私からではない。




私は 夫が ゆるされた と 感じられるその日が、

早く訪れますように と 祈るだけだ。





「ゆるされた二人」で 歩いていきたいんだ。
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by marca-mia | 2005-12-28 00:31 | 思うこと・自分