カテゴリ:思うこと・自分( 37 )

埋められない時間と距離


皮肉なことだが、
母と離れて上京した私は、みるみる体調が良くなった。

夫との出会いがあり、
様々なことを経験し、
2年の同棲期間を経て夫と結婚したのは、丁度上京10年目。

結婚して2年ほど経った頃
私の体が、再び奥のほうからきしみ始めた。

今思い返すと、母との関係を夫との間で繰り返したような感じがある。

相手の気持ちの受け皿になってしまう。

余裕で受けられるほどの器があるか、
受け流すすべを知っているのなら良いが、
受けて溜め込んで腐敗させてしまう。

腐敗していたものを吐き出していく過程は
最初はドロッドロで目も当てられない。
夫はこの一年、拒否したり逃げ腰だったりしながらも
よくぞつきあってくれたと思う。

私たちのほんとうの問題は不倫の後ろに隠されていた。
私は 夫が不倫を終えただけでは満足せず
その問題をずるずると二人の目の前に引っ張り出してきた。
私が問題視していたものを、夫は問題視はしていなかったのだから
今思えば夫の拒否反応も当然のことだったかも知れない。

私はただただ、夫が受け入れる受け入れないに関わらず
二人の間に溜まった膿を吐き出さねばならない、という切迫感で動いていた。

どさくさに紛れて吐き出したものの中に、母から受けたものも混じっていた。
それは、吐き出してみて初めて気がついたこと。

たぶん、夫の中にも似たような感覚...
私を自分の親と同一視するような感覚や、
そのことに気がついた瞬間瞬間があったのだろうと思う。

泥を吐き出すうち、少しずつ澄んだものが出てきた。
砂金のように、キラキラしたものが混じるようになってきた。
気がつくと、以前のような汚いものは出てこなくなった。
人間だから負の感情が生まれることはある。
でもそれが積もることはなくなった。
積もる前に、腐敗する前に、表に出せるようになった。

今、夫と私は 互いを澱ませてしまう関係でなく、
できるだけ自分の面倒は自分で見ようとした上で、
必要なときは素直に相手に甘えるようにし、思いやりを受けたら感謝の心を示し、
お互いに良い循環をつくっていこうという、共通の地点に立てているような気がする。

夫に直接その意志を確認したわけではないけれど
私の、“ほんとうの仲良しになるのだー!”という積極的なとりくみに
半ば無理やり付き合わされる形で参加し、
実際に色んな試行錯誤を経験する中で、
どうもこれは良さそうだ、とか
どうもこういうことは必要なんだな、とか
そんなことを体で覚えこんでいったように見える。

私は彼に与えすぎにならないよう、甘えたくなったら素直に甘える。
甘えることを覚えると、今度は甘えすぎになって、
甘えられないことを不満に思ってしまうこともある(生理前とかねー)。
そんな、極端な自分を発見したので、
今はホドホドに甘えて、甘えすぎない という技を身につけよう...と練習中。

そんな風に、お互いの自立と解放とが上手いバランスで共存できるように、
私たちは歩み出しつつある。
だから、私も夫も、この先少しずつ、体の調子も上がっていくのではないかな...?
と、希望的観測をしている。

だけど時々気になるのは母のこと。

私はいつも実家に帰ると具合が悪くなる。
はじめのうちは、甥っ子たちの世話でてんやわんやになるからかなぁと思っていた。

が、どうやら、母の存在が大きいらしいと気づいた。

母との関係、私は耐える部分が多かったものの、
離れて暮らすようになってその関係から逃げることができてしまったので、
なんだか通るべきところを通っていないような、
親子として、きちんとしたプロセスを経ていないような気がする。
間をすっとばしてここまできちゃった、みたいな。

ふと見れば、母は昔の母とちっとも変わっていないのだ。

私は今、夫との関係で学んだことを、もっと広い人間関係に応用していく必要を感じている。
そしてその最大の相手は、やはり母なんだなぁと思っている。

母の不満。愚痴。怒り。苛立ち。
それらは私が幼いときから、ストレスにしかならなかったけれど。
今はその奥にある、母が抱えている寂しさや、憂鬱な思いを理解してあげたいと思う。

今までの自分にはそんな余裕がなかった。
実家に帰るときは、ただただ日常から離れて田舎の自然に触れて休みたい
そんな思いだった(実際には休めたことはないのだけど)。
そして、毎度毎度期待は裏切られ、
母のイライラ放射能にさらされる羽目になり、
癒されることを期待していただけに落胆も激しく、
ドッと疲れて帰ってくる、の繰り返しだった。

今夏も、私と二人きりになると
母は待っていたように、他の家族や孫たちに対する苛立ちを
次から次へと機関銃のようにまくしたてていた。
ひとつ否定すれば、100倍にもなって返ってきそうな勢いである。

ああそうなんだなぁ、と思った。

私の前だとある意味、安心して負の感情を見せられるのだろうな、この人は。

それがいったい何故なのかは分からないけど
私はずっとこの人の気持ちの受け皿となってきたんだよな。
少なくとも18の歳までは。

面白いことに、故郷をあとにしてから、今年で丁度18年になる。

母とともに暮らした年数と同じだけの時間をかけて
私は自分を取り戻したのかも知れない。

この次の帰省からは
新しい私、ほんとうの私で 母と向かい合いたい。

少しずつ老いていく母
いつかはサヨナラしなければならない母

その時、少しでも穏やかな気分でいられるように。

めちゃめちゃ体が丈夫な母が、この先病に伏すことがあったら。
母はきっと落ち込むだろうし、冷静ではいられないだろう。

私にできることは限られているけれど、
いつか来るそんな日に備えて、
細々と、母の中に幸せの種を蒔いていくことができるかも知れない。

ほんとうにほんとうに、少しずつのことしかできないけれど。

それは、母の心の真ん中に働きかけてあげること。

私を生んだのはあなたなんだから、私に愛情を与えるべき、と。
そう 今まで思っていた。

だからこそ憎んだし、だからこそ与えてもらえないことが悲しかった。

今はそうは思わない。

愛って、人間の間にあるものだって気がついたから。

どちらかがどちらかに一方的に与えるんじゃない。
“愛を生むやりとり”というものがあるんだ。
そのやりとりの、私はきっかけをつくるだけ。

今度こそ、ほんとうに。
今度こそ、あなたをむやみに悲しませることなく。

埋められない時間と距離はそのままに

これからは はじけるようなあなたの笑顔を見ていきたいんだ。
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by marca-mia | 2005-09-06 13:22 | 思うこと・自分

どうしてこんなに


marca~
marca!
おーい、聞こえないの?
ねえねえってば!

ハッ!としたのと ビクッ!としたのと同時だった。
目の前に、夫のくりくりっとした目がのぞいていた。


私「ああ、やっちゃった~!」

夫「どうしたんだよ~。」

私「私さぁ、本読んでるとその世界に没頭しちゃってさぁ、
  周りの声も何も聞こえなくなっちゃうの。
  子供のときからそうだったんだよぉ。
  私が本読んでる間に、周りはドンドン夕食の支度をしてるのにね。
  食卓から1mと離れてないのに、ぜんっぜん気づいてないの。
  何べん呼んでも気づかないって、よく怒られたんだぁ~。」

夫「へぇー、そうなんだぁ。君は想像力豊かな子供だったんだねぇ^^」


私の背中をぽんぽん、としながら夫が微笑んだ。


私「えー...?なぁにぃ?想像力...?」

...自分でもびっくりするくらい突然に、涙がドーッと溢れてきた。


私「えへっ、えへっ。」

夫「なんだー!?何を泣いてるんだよぉ^^;」

私「そんな風に褒められたの初めてだぁー。」

夫「えっ、なになに、何だ、そんなことでー?」

私「だってこういうとき、怒られてばっかりだったんだもん。
  私さ、いっつも家族の中じゃ変わり者扱いでさ、
  みんな私のこういうとこ、あきれてたんだよ。
  想像力豊かだって~。
  そんな風に褒めてもらって嬉しいよぉー。えへっ、えへっ。」

夫「ふぅーん、じゃあもう一回言ってあげようか?^^」

私「ほんとぉ、嬉しいよおー。えーん、ひっくひっく...!」



夫と暮らし始めて一年ほど経った頃だったかな。

こういうことが起こるたびに、自分で自分にびっくりしてしまう。


夫の声に気がついたとき、
反射的に身構えてしまったのはこういうわけだったのか。


「どうしよう!」
「またやっちゃった!」
「またお母さんを怒らせた!」
「お母さんに嫌われる!」
「また『しょうがない子ね!』って思われる!」


一瞬で幼い頃の自分にタイムスリップしていた。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


去年の秋、

夫を怒らせてしまい、暴れた夫が「出て行け!」と叫んだ。


私は、こんな私といる夫が可哀想に思えてきて、
それでも私が私でない状態を受け入れることができなくて、
こんな私が夫のそばに居ることが申し訳ないような気持ちになった。
少しでも早く、この人の前から姿を消してあげなくちゃ...!と思い、
すぐさまホテルを予約して、その日の晩から家を出た。


ああ...もう別居するしかないんだ、もう限界なんだ、と思った。


母に電話をかけて、泣きながら事情を説明した。

「わたしが悪いの、わたしが悪いの...!」と言いながら。


頭の隅っこの、妙に冷静な部分で
前にも同じ言葉を言ったときがあったなぁ...とぼんやり思いながら。



「ワタシガワルイノ、ワタシガワルイノ...!」



何で私、こんなときいつもこう言うんだろ、と、泣きながら思った。
母をがっかりさせるような事を打ち明けるときはいつも、そうだ。



ワタシガワルイノ...。



必死になって繰り返す。
いつも、そうだった。いつから...?思い出せないくらい前から。


母は親身になって話を聞いてくれた。
一緒に泣いてくれた。


ふっと楽になったとき気がついた。

私が夫に求めていた愛情の一部は、実は母から欲しかったものなのだと。

母から満たされなかったぶんも、夫に求めていたんだ。


今さらのように、打ち寄せてくる思いがあった。

ずっとずっと母に求め続けていたこと。
この歳になっても、結婚してすっかり自立したつもりでいても、ずっとずっと欲しかったもの...。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


年が明け、お正月に帰省したとき、
私は むしょうに母にひざまくらして欲しくなった。


...なんでひざまくらなんだろ?


あーそうか...。
私にとって、母のぬくもりの思い出は、ひざまくら...なんだ。

それも、耳掃除してもらうときのひざまくらだったり、
幼い頃から体の弱かった私が、病院からの帰りにタクシーの後ろの席で
「marcaちゃん横になりなさい」と言われて頭をのせた、母のひざまくら。


何の理由もなく母に甘えて、抱いてもらった思い出がないから。


ひざまくらしてもらうための正当な理由がくっついたときの、ひざまくら。
私から「して」とは言えず、
母から誘ってもらえるのを、不安な気持ちで待ってた、ひざまくら。


いつも耳掃除のときは、
私は姉妹の中でもあんまり耳垢がたまらないほうで、
「あら、marcaちゃんはぜんぜんたまってないね~。はい、おしまい。」ですぐ終わっちゃってた。
母が耳かきの綿帽子でサササッと耳の周りをはらって、
しあげにフッ!と息を吹きかけるのが、嫌がる振りしながら好きだった。



...そんな風に思い出していたら。


母が私の心を読んだかのように、
「marcaちゃん、帰るまででいいから、お母さんの耳掃除してくれる?」と言った。


母「お父さんはさぁー下手なのよ。
  ○○子(妹)が来たとき頼もうと思うんだけどすぐ忘れちゃって。」

私「うん、いいよぉ。」


って言いながら、帰省するまで、甥っ子たちの世話でドタバタして、
結局してあげるのを忘れてしまった。



東京へ帰ってから電話した。


私「お母さんにさー、耳掃除してあげるって言ってて忘れちゃったね、ごめんねー。」

母「あー忙しかったもんね。お母さんも忘れてたわ。いいよいいよ。」




ワタシネ、オカアサンニ、ヒザマクラシテホシカッタノ...。
ワタシネ、オカアサンノ、ヒザマクラガスキナノ...。


って言いたかったけど、言えなかった。


何だかね。
私がそんなこと思ってるなんて、
突然言ったらお母さんに悪いみたいで...ね。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



どうしてこんなにあなたのしたことが

どうしてこんなにあなたの言葉が

どうしてこんなにあなたのくれたものが


私の心を今でもふい、と揺さぶるのだろう。


どうしてこんなにも、あなたのことが気になるんだろう。


幼い頃も今でも
母に対して「大好き!」という感情を持ったことがない。


それなのに。

どうしてこんなにも切なくなるんだろう。



幼い頃も今でも
「私があなたに」与えなければいけないとばかり思ってきた。


私という子供を持てたことを、あなたが誇りに思えるように

お母さんを幸せにしなくちゃいけないと思っていた。

それなのにがっかりさせてしまう自分が嫌だった。



いつも自分のことでいっぱいいっぱいのあなたに

遠くから視線で追いかける私がただただ感じていた思いは...。




お母さん...。






どうして、私はお母さんの子なんだろう...?

どうしてお母さんは私のお母さんなんだろう...。

神様はどうして

こんなにお母さんの気に入らないことしかできない私をお母さんの子供にしたの?

親子なのに。

神様は、親子の組み合わせを選ぶとき、

お母さんが喜ぶような子を お母さんの子供にすれば良かったのに。

そうすれば、お母さんはあんなにイライラしなくてすむのに...。

どうして私みたいな子を、お母さんの子供にしたの?

どうして私みたいな子が、お母さんの子供で生まれてきたの?

なんでそんなことしたの?ねぇ...。
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by marca-mia | 2005-09-03 01:25 | 思うこと・自分

ぎりぎりの私


あなたは受けすぎる。



と呼吸法の指導員の方に言われた。

あなたには、ちょっと特異な感受性がある。
あなたは無意識だろうけど、人を受け容れて癒してあげている。

人の邪気を受けて、吸いとってあげるから、あなたに接する人は皆楽になるだろう。

でもあなたは受ける一方。
すべてを吸い込んで、吐き出すことができない。

出すことを覚えていきましょうね。



私のために、良い言い方をしてくれたのだろう。

実際には 一人で立っていられなくて、
依存する相手(私の存在価値を感じさせてくれる相手)を求めていただけのように思う。

感受性という点では、確かにちょっと異常だった。

自他の区別がつかなくなってしまうということを 前回の記事で書いたけれど、
なぜか、他者をケアしなければいけない、という強迫観念がまとまわりついた時期があり
それが依存心の強い人をひきよせていたと思う。

また、なぜかは分からないが 勝手に想像力が働いて
対象にぐっと入り込んでしまうところがあった。

おかしな話、一時は犯罪や事件のニュースを見ても
被害者、加害者、両方の人格に入り込んでしまい、苦しくなった。
この世に不幸な人が一人でもいる限り、私自身も幸福になることはあり得ないように思えた。
その感じを誰に話しても理解してもらえず、それも苦痛だった。

遠い国で戦火に怯える子供たちを見て、自分の責任かのように思えてしまうというのは
もう尋常な人間の感覚ではないと思う。

もろかったのだ、私自身が。

それは、事実を一歩ひいて客観的に見られない。
事実を事実として受け入れられない、という弱さだった。

誰かが誰かを殺すたびに、
人を殺した人間と同じ「人間」という生き物である自分が、とてつもなく嫌になる。
と同時に殺された人間の無念さや恐怖を想像して胸苦しくなる。


一方で

自分はいつか人を殺してしまうんじゃないか...と恐怖したときもあった。



死への興味。
こう書くと誤解を招きそうな気もするけれど、
自分は生まれながらにして殺人者なのではないかという恐怖と
自分自身「何となく死にたい」という気持ちを思春期の頃から抱えてきた。
激しい欲望ではなく、漠然としたものではあったけれど。

欲望というよりも「死」というものへの、果てのない追求心だったのだろうか。

下校の途中、踏み切りにさしかかると、飛び込みたくなる衝動を覚えた。
殺人者の心理を知りたくて、犯罪ノンフィクションを読みふけった。

矛盾している。
人が死ぬと激しく胸がいたむというのに。

自分が欲望を抑えて生きているからか。
だから人が殺されると自分の責任のように感じるのだろうか。
誰かが死ぬと自分が殺されたように感じるのだろうか。

それとも、人間の中にある「死への渇望」の正体を
解き明かしたかっただけなのだろうか。

人間が怖かった。

怖いものに引き寄せられるように、犯罪のニュースに見入った。

自分で見入っておいて、その毒にあてられ、吐き気を覚えた。

その吐き気も抑えて飲み込んだ。


出せない。


際限なく入ってくるばかりで出せない。


人を殺してしまいそう、と感じながら、平凡きわまりない毎日を過ごす。
何となく死にたい、と感じながら学校へ行き、友達と笑い合い、家に帰って、寝る。


中学も高校も皆勤だった。


あの頃、不登校するくらいの表現力があれば良かったのかな。
毎日毎日 自分の本性を隠して生きてるみたいで、
それでもグレたり、ひきこもったり、泣いたりする気も起きなくて

演じること、絵を描くこと、詩を書くことで どうにか自分を保っていたようにも思う。
クラスメートとの他愛のない話なんて、一秒でもしたくなかった。ほんとうは。

演じること、表現することの魅力にとりつかれたのは、
自分の中の得体の知れないエネルギーを 正当な形で外へ出したかったのかも知れないなぁ。

ああ、それと日記。

ホントに毎晩毎晩、ものすごい量の日記を書いて。
口数が少ないのに、日記には色んな思いを書きつけた。

大学受験を間近に控えた冬のある日、初めて自己啓発本(?)のようなものを買った。

そのときそれを買ったのは、
タイトルの一部にあった「くやしさ」の言葉に引き寄せられたから。

自分が「くやしさ」を抱えていたことを、そのとき初めて意識的に認めた。


第一志望の大学に落ちたとき、
母の目がみるみる釣りあがって、白目をむきながら、私に向かってわめいた。
そのとき、私の中で何かがプツンと切れた。


殺したかったのは、きっと母なんだ。

自分が死のうか、それとも母を殺そうかと 揺れていたんだ。


あのとき、母から離れて上京できて良かったんだと思う。

限界だったんだね。18の私。


距離的に離れたからといって、
ほんとうの意味で母から解放されたわけでもなく、
ほんとうの意味で自立できたわけでもなかったのだけど。


それでもあのとき母から離れられたことは、私にとって幸運だった。
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by marca-mia | 2005-09-02 18:15 | 思うこと・自分

存在価値(ものすごく長くなっちゃったぁ...)


自分の存在価値を感じること。

ここに、男女関係の落とし穴があるように思う。

自分の強さ
自分のかしこさ
自分の寛大さ

これらを感じるとき、人は高揚している。
自分にそれらが備わっていると感じられるとき、
自分の存在価値を信じられる。

自分の存在価値は、数字ではかれるようなものじゃない。
だから、自分より弱い人間、もしくは愚かな人間が目の前にいてくれると助かる。
自分自身の強さ、かしこさ、寛大さは、増えたり減ったりしてるわけじゃないのに
相手が自分より弱々しくいてくれたり、頼ったり、尊敬してくれたりすると
にわかに自分の存在価値を信じられて、麻薬のような心地よさを感じる。


これは、不倫でも夫婦間でも 男でも女でも 同じだと思う。


強いだけの人間はいない
かしこいだけの人間もいない
寛大なだけの人間もいない

それなのに。


自分の中に当たり前に備わっているはずの、

強さと裏腹の 弱さを
ずっと賢いふりをしてきた 愚かさを
寛大な自分をしか許せない 狭量さを

そこにあるのに、見たくないのだ。
感じていながら、認めたくないのだ。


その不安の裏返しで、相対的に自分が優位に立てる関係を求めていく。

自分が優位だと思える相手を選ぶこともあるし、
相手によらず、無理やりそんな関係に持っていこうとすることもある。

たとえば、相手の振る舞いに自分が傷ついたとして
「わたしは傷ついた」と言うことができない。

傷つくのは自分の弱い部分(=繊細さ)であるのに、
「あなたは思いやりがない、人の心が分からない」と、相手を裁く。
弱さをかしこさにすりかえてしまうのだ。

強く、かしこく、寛大である自分。
これらをプラスイメージととらえ、
それ以外の自分は出てこないようにしてしまう。

弱く、愚かで、心が狭い自分。
これらはマイナスのものとして、
全部、何らかの細工をして、
強さ、かしこさ、寛大さの いずれかにすりかえられてしまう。

弱さも、愚かさも、狭量さも、悪いものじゃないのに。

弱いからこそ、強くなれるのに。
自分の愚かさを知っていることが、かしこさなのに。
心の狭さは、自分のこだわりの部分。こだわりは、個性でもあるのに。

自分の存在価値をおびやかす(と思い込んでいる)ものを
常に自分の中に抱えながら 見てみないふりしているのだから、
その人の存在価値は、いつまでも不安定で、他人を通してしか確認できない。

そもそも、強いこと、かしこいこと、寛大であること
=自分の存在価値 であると勘違いしているところから、狂いが生じている。

その人それぞれの生い立ちや環境と関係があるとは思う。

子供の頃、
転んでも泣かなかったり、兄弟に物を譲ってやったり、成績が良かったりしたとき
偉いね~、と褒められる。

認められた心地よさと引き換えに、失っていくものがある。

自分の存在価値を他人に決めてもらおうとする依存が芽生える。

それは当たり前のことだ。

誰もが心当たりのあることだ。

大人も子供も、そこまで深く考えもしないし、意識もしない。

そして、それでも別にいいのだ。

自分の存在価値を自分で獲得していく旅が人生ともいえるのだから。


自分の中の弱さ、愚かさ、狭量さを認めてしまったら、
向上心もなくなり、堕落した人間になってしまいそうで怖いのだろうか。

それなら、強く、かしこく、寛大であることを目指しつづければよい。

自分の弱さ、愚かさ、狭量さを許し認めることと
強く、かしこく、寛大な人間を目指すことは 矛盾しない。

自分の弱さを認められる人は、他人のそれも裁きたくなくなるからだ。
自分の愚かさを許せる人は、他人の愚かさにも寛大になれるからだ。

見たくない、見たくないと思っているから、
目の上のたんこぶのように、それはいつも身近にあって、意識されている。

それならいっそ、目の前に持ってきて、他人事のように、じっくりと眺めてみればいい。

自分の弱さ、愚かさ、狭量さが、絶対、可愛く見えてくるはず。



それは、ハンディキャップのある人が、
自分に備わった障害を受け入れ、認めていく過程と似ているかも知れない。

障害を受け入れ、ハンディキャップとともに生きていく覚悟がある人は
他人に対して素直に協力を求め、それに感謝し、自分を可哀想とは思わないだろう。
それとともに、自分の可能性を広げていく努力も怠らないだろう。
リハビリの必要があればするし、自分の権利を主張することもできるだろう。
障害を受け入れるという着地点があってはじめて、
その後の人生のために、努力していく意味を見出せるのだ。

だけどそこへ辿り着くまでの過程では、
自暴自棄になることもあるだろうし、他人を恨むこともあるだろうし、
わが身を消し去りたくなることもあるだろう。
むしろそこを通るからこそ、トンネルの向こうへ行けるのだろうし、
その過程こそが、まだ見えぬ光ある処へと手をひいていってくれるのだろうと思う。




相手の前で、強く、かしこく、寛大な自分しか見せてこなかった人は
そのうちの半分は、弱さ、愚かさ、狭量さをすりかえたものかも知れない。
そこへ注意を向けていると、どんなすりかえパターンにはまりやすいかが見えてくる。
いつもいつも同じようなパターンを繰り返しているなら、
意識してそれを壊していく必要がある。


自分の強い面も弱い面も、素直にバランスよく出していこう。


相手のウケを狙って、期待される役割を返すことはないし、
自分も相手に対して、ある役割だけを押し付けていかないようにする。

弱く愚かな相手を許したり支配したり指導することで
相手に密着していたいとの思いからフリーになること。

“相手の期待する自分”ではなく、“ありのままの自分”であること。

今まで出してこなかった弱い私、馬鹿な私、心の狭い私、理論的でない私を
素直に相手の前で解き放ってみる。

しばらくは、慣れないやりとりにギクシャクしても、
そのうち、どんな自分を出しても大丈夫、という安心感につながっていく。

今まで出せなかった自分を出すと、
相手が慣れない状況にうろたえて拒否されることがある。
それでも、相手に求めず、相手の反応に動揺することなく、
自分の色んな面を出していく練習をする。
そんな自分を見せているうちに、相手も変わってくる可能性がある。

しばらくは、弱音を吐くつもりが 相手への不満や愚痴になってしまったりと、
うまく行かなかいこともあると思う。

でもきっと、素直に表現できるときがくる。

自分の七色の感情を、強さも弱さも含めて認めていくことで
他人によらない、自分の存在価値を見出すことができる。

そのためには、
自分自身が、出しにくいと感じる部分、相手に対して認めたくない部分こそを、
意識的に出していくことだ。

何が正しいかの論議にすりかえてはだめ。

七色の自分を出していく過程では苦い思いをたくさんする。
すりかえをやめたつもりが、
すりかえ先を変えただけの自分に気がついて愕然としたり
本音でない言葉でいさかいになって後悔したり。


そこで引き返してしまう人は多い。


それは、相手との慣れないやりとりに疲弊し、
争いごとや、問題や、負の感情が浮上してくるのを見て、
この方向は間違っていたのだと思ってしまうからだ。

不器用な人は、相手とのかねあいを見て出し方を試行錯誤することができずに、
極端な形で出すか、でなければ、出すのをやめてしまう。

そんなときは、どこかすっきりしない。
相手に対しても、自分に対しても、どこかもやもやした不快感が残る。
出し切れなかった部分が、心にとどまって、胸の内側でとぐろを巻く。
挫折感を感じたくなくて、そのもやもやをまた相手のせいにしたり、
自分の心を殺してしまう人もいる。


私は、多くの人に、そこをこそ、超えてほしいと思う。

どんな道を行くか、何を選びとるか。

そんなことは結果として自然に決まってくるものだと思う。

不倫とか、夫婦とか、そんな狭い枠の話でもない。


望んだ結果にならなくても。
逆に、思いがけず幸運に事が運んだとしても。

どちらにしたってこの先の人生がある。

表面的な関係が、望んだ結果になろうと、思い通りになろうと
自分の中で何も変わっていなければ、
いずれまた自分の中から問い直される日が来る。

もしも、世界中の人があなたを愛してくれたとしても
自分で自分を認められなかったら、あなたは淋しいままだろう。

もしも、あなたが誰かを愛していても
自分を愛することなく、彼に満たしてもらうことだけにすがっていれば、
彼は、あなたにほんとうに愛されている気はしないだろう。

あなたが自分の体面は保ったままで、相手の変化を求めている限り。

自分の弱さも愚かさも狭量さも、相手の前にさらけだして拒否されたら、
その時こそ、そんな自分を許してあげよう。

人間は弱いけど強い。愚かだけどかしこい。狭量でもあり、寛大でもある。

それは、あなたも私も同じ。

そう思える日まで、がんばってみようよ。


私も、その感じがもっともっと自然に身につくまで、トライしつづけていこうと思ってる。

それが、自分も他人も楽にしてあげられる道だと、今は信じられるから。



今、苦しんでいる人へ。私から言えること。




...と言いながら...

私は何となく知っている。


今までの私を振り返っても、本や他人の意見で、自分が変わる訳じゃない。
本を読んで “そうそう、まさに私が思っていたことだ~!” と喜んだこともあったけど...。

それは今思えば、もう既に自分がその位置へ辿りついていて、
あらためて 誰かが言葉で言い表したものを見て 確認できた喜びなのだ。
そして、誰かの言葉を読んで“頭で”分かったとしても、
自らが 行動を含めて“実際に変わっていく”までには、かなりの隔たりがある。

だからこんなことを書いていながら、私が望んでいるのは
“私も同じ思いです”と、誰かが言ってくれることなのかも知れない。

そのことで私が感じる喜びは

苦しみを抜けられた誰かを祝福するものか

それとも、

他人によって自分の存在価値の確認ができたという一人酔いか...?



どっちにしても、自分って愚かで可愛いものだ ^ー^
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by marca-mia | 2005-08-05 01:08 | 思うこと・自分

見守ること 祈ること


不思議なことが起こった。


数年前から、周りの心配をよそに
大人とは言えない行動を繰り返していた友人のTちゃん。

幾度となく対話する中で、
彼女の口から出てくる観念的なもの言いが
全て自分の行動を正当化するためにだけ役立っているのを感じていた。

自分の人生、やりたいようにやる。
やりたいようにやるのは構わないけど、彼女の場合はその過程で人を傷つける。
横から口を出す人は、彼女にとっては「邪魔な人」

周りの非難が高まるにつれて
彼女に正しいことを教えてあげたいような欲求が膨らんではいた。

皆も言う。

marca、彼女に言ってよ。
彼女はあなたを信頼してるみたいだし、
あなたの言うことなら聞くと思うからさ。


だけど、私は言わない。

彼女は今、耳が閉じてる状態だからね。
その人にはその人の、タイミングがあるしさ。
友達としては、耳が開くまで見守りたいと思うよ。



私にとって、一番身近な夫だって、そうなのだから。



誰も自分の人生を歩む 道筋もテンポも、人に決めてもらいたくはないだろう。



あなたはこうあるべき、と言われて嬉しい人なんかいないだろう。
そこに、どんなに善意が込められていようとも
本心から、その人のために言ってあげた場合でも
言われたほうは(今のあなたではダメ)と言われたような気分になる。


ともかくは、定期的に会って話をする。
彼女の話すことは、私には肯定できないものばかりだけど 聞くだけならできる。


相槌を打ち、一緒に美味しいものを食べ、自分の話も少しする。
強気な彼女は、私の話を「評価」してくる。
その様子から、彼女がどんな状態にあるのか、ひしひしとこちらに伝わってくる。


少なくとも、幸せじゃ、ないんだなぁ。

きっと何か、満たされていないんだなぁ。




そんな彼女が、数日前メールしてきた。


今までの自分の生き方が、情けなくなった。
私は嫌なことからすぐ、逃げて、逃げて。
気に入らないことがあると、相手をはねのけてきた。

marcaは、辛いことがあっても前向きに乗り越えて、
その度に人との絆を強くしているよね、それって、すごい。
私には、何もない...。




「会おうか?」と返事した。



カフェで向かいあった彼女はまるで憑き物が落ちたように
力の抜けたいい顔をしていた。

幼い頃から可愛がってくれた叔母さんが亡くなったのだという。


今まで、一人で、生きてると思ってた。
でも違ったんだ。
人は自由だし、孤独だし、自分は自分、それでもいいけど
でも、けっして、自分だけでもないんだ、それが分かった。




私はうなづくだけで良かった。


何の説き伏せることもなしに 彼女は変わった。


私も自分のことを話す。
彼女もうなづく。
交互に話して、交互にうなづきあった。



家に帰ってからメール。
「今日は、しみじみしたね^-^」


私がしたことと言えば、彼女が幸せになりますようにと祈っただけ。


少し前なら、やきもき、イライラしていたに違いない。
落ち着いて見ていられるようになったということは
私も少し大人になったのかな?


なんだ、こんなに、人生って省エネで生きていけるんだ。


今まで、浅瀬でもがいていたのが、
急に足がついたような 不思議な感じがした。
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by marca-mia | 2005-07-23 11:30 | 思うこと・自分

まっすぐに進めなくても


わたしたちは ひとつ
       わたしたちは 別々

わたしたちは 分かり合える
       わたしたちは 真に分かり合うことはできない

人間は 誰も独り
       人間は 独りじゃない

男は 強いもの / 女は 弱いもの
       男は 弱いもの / 女は 強いもの



...そのときどきに、

自分が楽になれるほうの真理を選択できたらいいね。

だってどれも間違いじゃないもの。


人間が何万年生きても

ほんとうの答えは 決まらなかった。

つまり真理とは、うらおもて。


言い継がれてきた どの真理も、

人を失望させたり、がっかりさせたりするためのものじゃないだろう。

上手に使い分けることで、目の前の波を超えられればそれでヨシ。

パッと視界が広がる方に飛び乗ってみよう。
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by marca-mia | 2005-07-07 02:41 | 思うこと・自分

余計な荷物を捨てながら進もう


時が与える体験


時間薬。

この言葉を目にするたびにいつも思っていた。

状況を何一つ変えないで
ただじっと時が過ぎるのを待てということ?

だとしたら私にはそれは耐えられない と。

忘れ去りたいような体験をしたならば、
そこからはプラスの体験を積み上げたい。
時間の助け「だけ」を期待していれば
マイナスの感情がどんどん堆積していってしまう気がする。

そのまま放置することで 時間という既成事実を作ってしまう。
長い長い時間が過ぎたあとで
これは本意ではない、
本当はこうありたかった!

と声を出すには 既に時の重みに身動きができなくなっている。

のしかかった時の重みを打ち砕く勇気が出ずに 妥協、妥協を繰り返す。
そんな人生は私には耐えられそうもない。

私は、とただし書きをつけて言うのだけど
自分が愚かであると
自分が欲張りであると
自分が寛容でないと

知ったからこそ そう思う。

もがき苦しむことなく、何の心的葛藤もなく
すっとスライドするように 我欲のない人間になれるかといえば、
それは嘘だ。

そんな芸当ができるほど
私の土台は上等にはできていない。

それを知っているから

歳を重ねるだけで
そんな人間になれるだろうという自信も当然ない。

時間だけで、そんな風にはなれない。

めいっぱいジタバタして我欲を通そうとした末に
結局はその我欲が問題なのだと知る
(知ったとしても捨てることは出来ないだろう)

自分はそんなタイプの人間だと思う。



幸せになりたい と強く願う。



この 幸せになりたい!という思いが「欲」だとすれば
本当の幸せ、深いところにある幸せ、を目指すものである限り、
いくらでも欲張っていいものじゃないかと思う。


人間としての、本物の、比類のない幸福感を得るという
たったひとつの欲を満たすために
実際には、
捨てるべき他のものを 数限りなく捨てていくことになるのだから。
お金や名誉でいっときの優越感を得ても
自己の空虚さにたちまち不安が襲ってくること

自分だけが満たされたところで
その幸福感には嘘っぽさがあること

それではと てっとり早く自分を犠牲にし他人を優先しても
心がすり減るばかりであること

もう私はそれを知っている。
幸せになりたい!と欲張って生きてきたから気づけたこと。


面白いことに 欲張れば欲張るほど
私は少しずつ 謙虚になり 自由になり 感謝し 賢くなっていく。 


この「本当の幸せ」を求める“強欲”を抑えることなく
ああでもないこうでもない、と試行錯誤を繰り返す。


そんな私につきあってくれる夫の寛容さに
今はひれ伏して感謝したい。


でも ごめんね。


開き直って我欲いっぱいに生きると今は決めた...!
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by marca-mia | 2005-07-04 12:27 | 思うこと・自分