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なみいろいろ!

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地元の海に行って、久々に潮の匂いをかいできました。




天気が悪くて海遊びは出来なかったけど、

思う存分、波の観察。





ほとんど同じ場所から、同じ角度で撮ったのに

色んな表情を見せる波たち。





ずっとずっと見ていても飽きない。


ずっとずっと 見ていたい。
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by marca-mia | 2005-08-19 01:36 | つれづれ

目をつむる


お風呂で湯浴みをしているときにも、
気がつくと想念に支配されてる自分がいる。

呼吸法を習っていたときのように、
目をつむって、石鹸の泡をたてて 手で体を洗ってみた。

慣れ親しんだ自分の体は、
目をつむっていても、全身くまなく、すみずみまで、ちゃんと洗える。

でも 慣れ親しんだ自分の体であるはずなのに
自分の手でいつくしんであげることをしばらくしていなかったから
ああ、こういうところの感覚が死んでいたなぁ...とか思う。
目をつむっている間、意識は触覚に向けられ、繊細な皮膚の感触を100%味わう。

洗い終わって、ぱち と目を開けたとき

そのときの私は、「ただここに在る」ことができている。

目をつむる前とは、意識の向く先が違っている。
肌をすべるお湯の気持ちよさ、湯気の動きのうつくしさ、床のなめらかな樹脂の感覚。
ただそこにあるものの中でたゆたい、
何かを思いわずらって焦っていた気持ちは消える。

私は、いま ここ を 大切にしよう、と思える瞬間。



似たような感じを、以前も味わったことがある。

二年ほど前に読んだボディセラピーの本に、こんな一文があった。
目を閉じてレーズンをなめたことがありますか?

たまたまうちはレーズンを常備しているので、冷蔵庫からとりだしてさっそくなめてみた。

目をつむると、不思議なことに、舌の感触が鋭敏になる。
うっわー!なに、この感じ!?
舌が、文字通り触覚になったように、レーズンの細かい凹凸を感じとる。

目をあけると...、アレ、急に感触が変わる!

もう一度目をつむると...、わぁ、また感覚が鋭くなる!

しばらくそれで遊んでいた。



目を開いているとき、
視覚から得る情報が、いかに、意識の大部分を占めているか。
目が開いているから分かっていると思い込んでいるものが、いかに多いか。

目をつむると、
眠っていた他の感覚が、空き容量を与えられて動きだす。

ときどきそうやって、自分の、見捨てられてきた体の感覚を呼び覚ましてやらねばと思う。

そのときは、常に使っている感覚の方は、休んでいられる。

こうやってバランスをとっていくことが大事なんだな。


目をつむらなければ、分からないことも あるね。
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by marca-mia | 2005-08-10 02:24 | つれづれ

存在価値(ものすごく長くなっちゃったぁ...)


自分の存在価値を感じること。

ここに、男女関係の落とし穴があるように思う。

自分の強さ
自分のかしこさ
自分の寛大さ

これらを感じるとき、人は高揚している。
自分にそれらが備わっていると感じられるとき、
自分の存在価値を信じられる。

自分の存在価値は、数字ではかれるようなものじゃない。
だから、自分より弱い人間、もしくは愚かな人間が目の前にいてくれると助かる。
自分自身の強さ、かしこさ、寛大さは、増えたり減ったりしてるわけじゃないのに
相手が自分より弱々しくいてくれたり、頼ったり、尊敬してくれたりすると
にわかに自分の存在価値を信じられて、麻薬のような心地よさを感じる。


これは、不倫でも夫婦間でも 男でも女でも 同じだと思う。


強いだけの人間はいない
かしこいだけの人間もいない
寛大なだけの人間もいない

それなのに。


自分の中に当たり前に備わっているはずの、

強さと裏腹の 弱さを
ずっと賢いふりをしてきた 愚かさを
寛大な自分をしか許せない 狭量さを

そこにあるのに、見たくないのだ。
感じていながら、認めたくないのだ。


その不安の裏返しで、相対的に自分が優位に立てる関係を求めていく。

自分が優位だと思える相手を選ぶこともあるし、
相手によらず、無理やりそんな関係に持っていこうとすることもある。

たとえば、相手の振る舞いに自分が傷ついたとして
「わたしは傷ついた」と言うことができない。

傷つくのは自分の弱い部分(=繊細さ)であるのに、
「あなたは思いやりがない、人の心が分からない」と、相手を裁く。
弱さをかしこさにすりかえてしまうのだ。

強く、かしこく、寛大である自分。
これらをプラスイメージととらえ、
それ以外の自分は出てこないようにしてしまう。

弱く、愚かで、心が狭い自分。
これらはマイナスのものとして、
全部、何らかの細工をして、
強さ、かしこさ、寛大さの いずれかにすりかえられてしまう。

弱さも、愚かさも、狭量さも、悪いものじゃないのに。

弱いからこそ、強くなれるのに。
自分の愚かさを知っていることが、かしこさなのに。
心の狭さは、自分のこだわりの部分。こだわりは、個性でもあるのに。

自分の存在価値をおびやかす(と思い込んでいる)ものを
常に自分の中に抱えながら 見てみないふりしているのだから、
その人の存在価値は、いつまでも不安定で、他人を通してしか確認できない。

そもそも、強いこと、かしこいこと、寛大であること
=自分の存在価値 であると勘違いしているところから、狂いが生じている。

その人それぞれの生い立ちや環境と関係があるとは思う。

子供の頃、
転んでも泣かなかったり、兄弟に物を譲ってやったり、成績が良かったりしたとき
偉いね~、と褒められる。

認められた心地よさと引き換えに、失っていくものがある。

自分の存在価値を他人に決めてもらおうとする依存が芽生える。

それは当たり前のことだ。

誰もが心当たりのあることだ。

大人も子供も、そこまで深く考えもしないし、意識もしない。

そして、それでも別にいいのだ。

自分の存在価値を自分で獲得していく旅が人生ともいえるのだから。


自分の中の弱さ、愚かさ、狭量さを認めてしまったら、
向上心もなくなり、堕落した人間になってしまいそうで怖いのだろうか。

それなら、強く、かしこく、寛大であることを目指しつづければよい。

自分の弱さ、愚かさ、狭量さを許し認めることと
強く、かしこく、寛大な人間を目指すことは 矛盾しない。

自分の弱さを認められる人は、他人のそれも裁きたくなくなるからだ。
自分の愚かさを許せる人は、他人の愚かさにも寛大になれるからだ。

見たくない、見たくないと思っているから、
目の上のたんこぶのように、それはいつも身近にあって、意識されている。

それならいっそ、目の前に持ってきて、他人事のように、じっくりと眺めてみればいい。

自分の弱さ、愚かさ、狭量さが、絶対、可愛く見えてくるはず。



それは、ハンディキャップのある人が、
自分に備わった障害を受け入れ、認めていく過程と似ているかも知れない。

障害を受け入れ、ハンディキャップとともに生きていく覚悟がある人は
他人に対して素直に協力を求め、それに感謝し、自分を可哀想とは思わないだろう。
それとともに、自分の可能性を広げていく努力も怠らないだろう。
リハビリの必要があればするし、自分の権利を主張することもできるだろう。
障害を受け入れるという着地点があってはじめて、
その後の人生のために、努力していく意味を見出せるのだ。

だけどそこへ辿り着くまでの過程では、
自暴自棄になることもあるだろうし、他人を恨むこともあるだろうし、
わが身を消し去りたくなることもあるだろう。
むしろそこを通るからこそ、トンネルの向こうへ行けるのだろうし、
その過程こそが、まだ見えぬ光ある処へと手をひいていってくれるのだろうと思う。




相手の前で、強く、かしこく、寛大な自分しか見せてこなかった人は
そのうちの半分は、弱さ、愚かさ、狭量さをすりかえたものかも知れない。
そこへ注意を向けていると、どんなすりかえパターンにはまりやすいかが見えてくる。
いつもいつも同じようなパターンを繰り返しているなら、
意識してそれを壊していく必要がある。


自分の強い面も弱い面も、素直にバランスよく出していこう。


相手のウケを狙って、期待される役割を返すことはないし、
自分も相手に対して、ある役割だけを押し付けていかないようにする。

弱く愚かな相手を許したり支配したり指導することで
相手に密着していたいとの思いからフリーになること。

“相手の期待する自分”ではなく、“ありのままの自分”であること。

今まで出してこなかった弱い私、馬鹿な私、心の狭い私、理論的でない私を
素直に相手の前で解き放ってみる。

しばらくは、慣れないやりとりにギクシャクしても、
そのうち、どんな自分を出しても大丈夫、という安心感につながっていく。

今まで出せなかった自分を出すと、
相手が慣れない状況にうろたえて拒否されることがある。
それでも、相手に求めず、相手の反応に動揺することなく、
自分の色んな面を出していく練習をする。
そんな自分を見せているうちに、相手も変わってくる可能性がある。

しばらくは、弱音を吐くつもりが 相手への不満や愚痴になってしまったりと、
うまく行かなかいこともあると思う。

でもきっと、素直に表現できるときがくる。

自分の七色の感情を、強さも弱さも含めて認めていくことで
他人によらない、自分の存在価値を見出すことができる。

そのためには、
自分自身が、出しにくいと感じる部分、相手に対して認めたくない部分こそを、
意識的に出していくことだ。

何が正しいかの論議にすりかえてはだめ。

七色の自分を出していく過程では苦い思いをたくさんする。
すりかえをやめたつもりが、
すりかえ先を変えただけの自分に気がついて愕然としたり
本音でない言葉でいさかいになって後悔したり。


そこで引き返してしまう人は多い。


それは、相手との慣れないやりとりに疲弊し、
争いごとや、問題や、負の感情が浮上してくるのを見て、
この方向は間違っていたのだと思ってしまうからだ。

不器用な人は、相手とのかねあいを見て出し方を試行錯誤することができずに、
極端な形で出すか、でなければ、出すのをやめてしまう。

そんなときは、どこかすっきりしない。
相手に対しても、自分に対しても、どこかもやもやした不快感が残る。
出し切れなかった部分が、心にとどまって、胸の内側でとぐろを巻く。
挫折感を感じたくなくて、そのもやもやをまた相手のせいにしたり、
自分の心を殺してしまう人もいる。


私は、多くの人に、そこをこそ、超えてほしいと思う。

どんな道を行くか、何を選びとるか。

そんなことは結果として自然に決まってくるものだと思う。

不倫とか、夫婦とか、そんな狭い枠の話でもない。


望んだ結果にならなくても。
逆に、思いがけず幸運に事が運んだとしても。

どちらにしたってこの先の人生がある。

表面的な関係が、望んだ結果になろうと、思い通りになろうと
自分の中で何も変わっていなければ、
いずれまた自分の中から問い直される日が来る。

もしも、世界中の人があなたを愛してくれたとしても
自分で自分を認められなかったら、あなたは淋しいままだろう。

もしも、あなたが誰かを愛していても
自分を愛することなく、彼に満たしてもらうことだけにすがっていれば、
彼は、あなたにほんとうに愛されている気はしないだろう。

あなたが自分の体面は保ったままで、相手の変化を求めている限り。

自分の弱さも愚かさも狭量さも、相手の前にさらけだして拒否されたら、
その時こそ、そんな自分を許してあげよう。

人間は弱いけど強い。愚かだけどかしこい。狭量でもあり、寛大でもある。

それは、あなたも私も同じ。

そう思える日まで、がんばってみようよ。


私も、その感じがもっともっと自然に身につくまで、トライしつづけていこうと思ってる。

それが、自分も他人も楽にしてあげられる道だと、今は信じられるから。



今、苦しんでいる人へ。私から言えること。




...と言いながら...

私は何となく知っている。


今までの私を振り返っても、本や他人の意見で、自分が変わる訳じゃない。
本を読んで “そうそう、まさに私が思っていたことだ~!” と喜んだこともあったけど...。

それは今思えば、もう既に自分がその位置へ辿りついていて、
あらためて 誰かが言葉で言い表したものを見て 確認できた喜びなのだ。
そして、誰かの言葉を読んで“頭で”分かったとしても、
自らが 行動を含めて“実際に変わっていく”までには、かなりの隔たりがある。

だからこんなことを書いていながら、私が望んでいるのは
“私も同じ思いです”と、誰かが言ってくれることなのかも知れない。

そのことで私が感じる喜びは

苦しみを抜けられた誰かを祝福するものか

それとも、

他人によって自分の存在価値の確認ができたという一人酔いか...?



どっちにしても、自分って愚かで可愛いものだ ^ー^
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by marca-mia | 2005-08-05 01:08 | 思うこと・自分

続・はじまりは知ることから


夫との関係を立て直していく中で、新しい発見をひとつする度に
男女関係や夫婦関係について言い古された真理を体で感得していった。

その中のひとつ、依存関係について、私が感じたこと。

...夫が妻に求めるのは母親役だというけれど
男としての自信のほうは、誰かに頼られ、それに応えていくことで生まれるみたい。
母親の役割ばかりを妻に求めていくと、男としての自信はどんどんしぼんでいく。
自分がそう仕向けていったのに、その関係に苦しくなって、
かと言って固着した夫婦関係のバランスを、どこから修正したらいいかも分からなくて
そもそも修正する必要にも気がつかず、自分の息苦しさを相手のせいにしていく。

...妻も、夫の恋人でもありたいと思いながら、求められるままに母親役をしてしまう。
母親とは、子どもを支配し、コントロールする存在でもあるから、
夫の母親役をやることで、実は自分が安心したいとの意識がどこかに働いている。
強い人、しっかりした人、頭のいい人は
「こういう場面ではこうあるべき」という道徳観念を捨てられない。
だけど、理性で対応しているように見えるその“オトナな態度”の裏には
自分の存在価値を、相手との関係の中に見出したいとのスケベ心がある。
女性として見られたいなら、どこかで母親役を降りなければいけない。



...妻が強いところばかり見せていると、夫は、男としての自信を感じられない。
自分を頼り、甘え、依存してくる外の女性に求められることで、
自分の存在価値ををとりもどし(たように思え)、どんどんその関係に酔っていく人が多い。

...母役をやってしまう女性も、本当に強く、しっかりしているわけではない。
不倫する男と同じで、依存してくる相手に必要とされる、
「価値ある自分」を感じたいだけなのだ。


どちらが見ているのも、勝手につくりあげた自己のイメージだ。


私が夫との結婚生活でおかしてきた、大きな間違いもこれだった。


責任は双方にある。
(だから不倫してもいい、というのは違うけど)


私は夫の告白を受けてからも、母親役を続行してしまった。それは過ちだった。
3ヶ月めに、それが過ちだと気づいたそのときには、心が壊れかかっていた。
もはや、言葉だけでは、固着した関係を打ち砕くことはできなかった。

私は悲しいの、苦しいの、死んでしまいたいほどに、自分が可哀想なの。

それらを言葉にしたところで、夫には届かなかった。

嘆き、狂い、怒り、泣き叫ぶ、まさにその姿を
悲しみそのもの、苦しみそのもの、怒りそのものを
夫の目の前に、全身で表すことでしか、分からせることはできなかった。

夫は今でも、私のあの頃の壊れようは トラウマになるくらいの苦痛だったという。

当時(と言ってもつい昨年だが)のことを思い出すと、私を好きだとは言えない。と言うくらい。
不倫されたことに匹敵するくらいの、いや、それ以上の苦しみを受けたと感じているらしい。


私はそれで良かったと思っている。


自分の中の鬼や悪魔が暴れまわっているのを押さえつけて、
私はそんな人間じゃない、と、自分だけが人格者を決め込もうとするのではなく、

その鬼や悪魔を外に出してやり、実際に夫の目の前にさらしたからこそ
己の愚かさ、狭量さ、弱さを、潔く認めることが出来た。

夫が「不倫したこと以上の責めを受けた」と感じるほどの
壊れた心そのままを夫の前に差し出して 母親役を降りたことで
やっと夫も弱い私が居ることを、逃げ腰ながらも、体で感じ取ってくれたと思う。

いつだったかな。

おっかなびっくりながら、落ち着いた会話もできるようになってきた頃 夫が言った。


俺、君がああいう風になっちゃうなんて思わなかった。
君は俺が何しても、ずっと優しかったのに、
あんなに酷いことが出来る人だなんて思わなかった。

まっすぐ夫の目を見返して言った。


私も、あなたが不倫するなんて思わなかった。^ー^



お互い、何も分かっていなかったね。


お互い、都合の悪い自分を見せていなかったね。





*** 追記 ***

夫婦のバランスを回復するためには、単純に依存関係を逆転するのではなくて、
それぞれが、依存によらない自分の存在価値を見出すことが大事だと思うのだけど、
それについては、長くなるのでまた次回...。
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by marca-mia | 2005-08-04 01:15 | 思うこと・夫婦

はじまりは知ることから


夫が私に不倫していたと告白したとき
私は「正直に話してくれてありがとう」と言った。
その言葉をもって許すという訳ではないけど
真実を話してくれたこと自体は本当に嬉しかった。
その頃の私の精神状態を把握してくれていなかったのは残念だけど
それでも、嘘をつき続けられるよりは遥かに良かった。

このことを友人や姉妹に話すと、皆一様にええー!?と驚く。

正直に話してくれてありがとう!?
不倫しても家庭を壊す気がないなら、墓場まで持っていくのが男の責任じゃない。
「妻を苦しめるようなことをしている」って自覚がある人は、自分からなんて言わないと思うよ。
むしろ、隠し通すのが愛情だと思う。

おっしゃる通りな部分もある。たしかに。
そして、不倫していた当時の夫も、そう考えていたのだと言う。

知られなきゃいい、と。




実は夫の告白の一年前、
不倫を確信させるようなメールを私は発見している。

そのとき、夫は嘘をついた。

食事に行っただけ、遊びに行っただけ、深い関係じゃない、と言い張った。
メールの内容から、そんな浅い関係じゃないことは容易に推測できたけど...。

そこを突っ込むと、夫は病気に逃げた。
俺は正直に話しているのに、お前が疑うから症状がひどくなった、と逆に責められた。

メールはすべて消去され、私の口は封じられ
心は宙ぶらりんのまま、放置された。

ハッキリさせたい気持ちを 私は飲み込んだ。
もしも夫が言うように、私を裏切っていないのだとしたら、
うつ病の夫に対して疑いをかけることが、
どんなに心理的なショックを与えるか、分かっていたから。

もし、不倫していたんだとしても
それが明るみに出ることで、結局は夫の消耗、ひいては病状悪化につながる。
真実を知りたいという自分の欲求のために、
病気の人間を追い詰めることは私には出来なかった。
たぶん夫も、私がそういう人間であることを見越していたのだろう。

どちらにしても、今は夫が健康を取り戻すことが優先だ。




私は二度と、事の真相を確かめようとはしなかった。

考えないようにするために、看病に集中していたのかも知れない。
それまでで充分、夫に対して失望することが積み重なっていたから、
それ以上に傷つくことを、無意識に避けたのかも知れない。

夫が何をしていたかは確かめられないけれど、何をしていたとしても。
きっと私が彼に辛抱強く接していれば、いつか分かってくれる日がくる。
夫に対して飲み込んできた涙を、きっと理解してくれる日がくるだろう。
そう信じて日々を過ごしていた。

変わらず夫の世話をする私の様子に、今度は夫が苦しくなった。




メール発見からほぼ一年後 夫は私に真実を打ち明けた。

私には心の準備があったはずなのに、
「そうかも知れない」と「事実そうだった」の間には、天と地ほどの差があった。
“事実”は、
否定しても否定しても、
信じられない、認めたくないとどんなに心が抵抗しても、
どこまでいっても私を解放しない。
事実なんだ。夫は本当に不倫したんだ。そう思う度に大きな絶望感が私を襲う。


それでも...、


それでも。


嘘をついた二年前の夫と、
真実を話した一年前の夫。

私は、嘘つきでない夫の方が 好きだ。


夫が二年前に嘘をついたとき、
この人、嘘をつくんだな...。と思ったら 何だか夫がすごく遠くにいるように見えた。

夫の嘘を覆すだけの材料は私には無かったけれど、
正直に話してくれていない、ということだけはハッキリ感じ取った。

こちらの疑問も追及も、シャットアウトする感じ。
私を拒否しながらの会話。

そこにいるのにいないような感じ。

見慣れた顔なのに知らない人のような違和感。



私は、嘘つきが嫌い。



友人たちが言うように、
夫が自分から不倫を打ち明けたのは、人間的に弱いせいもあると思う。

話したことの結果を引き受ける覚悟なんてない。

許して包んでくれる腕も
疲れた自分の代わりに「事実」をしょってくれる背中も
すべて、傷ついた私に求める夫。
そんなにも たった一人の人に還っていくしかない依存。

裏切り、傷つけ、甘え、怒り、
夫がすべての行為、すべての感情の対象としていた相手
すべての役割を負わせようとした相手は、私というたった一人の人間。

(それだけの濃い間柄であるために、
浄化すれば、幸福に向かうこともできる関係、それが夫婦というものなのだろうけれど。)


先を読めない夫、
自分を知らなすぎる夫、ではあるけれど。

それでも、自分の言をひるがえす勇気を出した。




いつだったか、夫と交わした会話。


私「正直に話してくれたことは、本当に嬉しいよ。」

夫「君は、そういう人だと思ったから...。」

私「それ正解!^ー^b 良く分かってるね。」


私がそういうタイプの人間だという点においては、夫は正確に把握していた。
そのことも、苦しみながらも嬉しいと思えたことのひとつ。


夫「たぶん、まわりの友人達の誰に相談しても、言うなって言われると思うよ。
  自分から言うなんてバカだって言うと思う。
  だから、そいつらから見たら、俺はバカなんだけど。
  だけど、君は嘘が嫌いだから...。
  君がそういう人だから、俺は言ったんだ。」


賢くずるく、要領よく。
妻とは別に、外に女性がいるということ。
そんな自分であることに酔っていた、くだらない、子どもじみた自尊心。
それらをすべて「正直であること」と引き換えにしてくれた。


私に事実を打ち明けたあの日、
夫はひとつ、階段を上ったのだと思う。
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by marca-mia | 2005-08-02 12:07 | 思うこと・夫婦