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不幸の味


実は人間って、不幸を抱えていたいものなのかも知れない。


カラッと明るくて、何の悩みもなさそうな人を見て
幸せそうだな。あんな風に生きたいな。と思うのと同時に、
何だかこの人何も考えてなさそうだな~~。
って、そう思うことは、ないですか。


「いいね~、幸せで。」って言われたとき。

バカにされた!って思ったり、しませんか。
「これでも色々悩みがあるんだよぉ~。」って返しておかないと、
深みのない人間と思われてしまいそうな、そんな気がしませんか。


誰かの言葉にグサッときたとき。

無神経な人っていいよなぁ~。
人に気を遣わなくていいから、ストレスがなくて...。
(でも私は繊細で人にも優しいから、そんな無神経な生き方、できないわ)
って、小さな軽蔑がはしりませんか。(それは私です)


不幸、というのは、それを抱えているだけで、

私は一生懸命生きてる、って思えてしまう麻薬のようなものかも知れない。


不幸から解放されて、
不幸から自由になって、
不幸はあなたから離れたがっているのに。


料理をつくるつもりが、材料で遊んでしまっている子供のように。


いつまでたっても、別の何かに変化させようとせず、
粘土のようにこねくりまわして、時を過ごし、
混ぜて、焼いて、盛りつけて...の、次の段階に進みたくないのかも知れない。


混ぜて、焼いて、盛りつけて、美しい料理が出来上がるのに、
そんな素敵な出来上がりを想像できずに、
いつまでも、その手ざわりを楽しんでいたいのかも知れない。


そんな風にしている限り、
「料理に取り組んでいる(ように見える)自分」はずっと続くわけで、


「あら、えらいわね!」という誉め言葉でも
「いつまでも遊んでないで、仕上げなさいよ~!」という小言でもいいから

誰かに、「一生懸命生きてる自分」として、構ってもらいたいのかも知れない。


そんな風に言ってくれるような 誰か が見ていなくても、
自分自身が、そう思いたいのかも知れない。





料理とは、科学反応。
形を変え、色を変え、成分変化する、理科の実験のようなもの。


初めての料理にチャレンジするように、思い切って、次の過程へ進んでみよう。


レシピがなくて不安かも知れないけれど、
あなたが自由にアイディアを盛り込める、創作料理だよ。


失敗するかも...?


失敗なんてありえない。
出来たものがあなたの作品。それがあなたの味。


失敗作だと落ち込んだって、大丈夫 ^-^


しっぱいは せいこうのもと と、いうもんね...。
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by marca-mia | 2005-12-30 16:10 | 思うこと・自分

ゆるされること(3)


人生は“ゆるされること”の繰り返しなんだと知る。


私が松本さんの本に出逢えたように
ひたすら前を見て歩く道の途中に
神様があらかじめ用意してくださっていたみたいに
ゆるされるときが訪れる。


私はキリスト教徒ではないので
はっきりと 神様にゆるされる という感覚ではない。

だけど、自分で自分をゆるす というよりは
“何か”に ゆるされた......そんな感覚を持つ。



きっと、世界中のみんなが私をゆるしてくれても
自分で自分をゆるせなかったら
救いはやってこないのだろう



一番最後には、私が残る。
みんながゆるしてくれても、自分自身が残る。
自分をゆるしていない 自分自身が。



どんな条件が整って、そのときがやってくるのか分からない。



自分で自分をゆるせない私に、
天使がそっと舞い降りるように、ゆるし をプレゼントしてくれる。



「自分をゆるします」と百万回となえても 得られることのない 安堵感を
何か大いなるものが もたらしてくれる。

ゆるされた...。という暖かい感情。



私にとっては、他の表現に変えられない感覚。

ゆるされた...。この言葉が、じんわりと、胸にしみこんでいく。
ゆるされた...。その泉が、喜怒哀楽とは別のところにある。




自分の中から湧いてくるようでいて
ひとりよがりとは 違う。




ゆるされることなど期待していなかったから
切に願って叶えられた...!という歓喜とも 違う。




ひとつひとつ

ゆるされていく。

そのたびに




ひとつひとつ

心が軽くなっていく。






私が過去の自分をゆるされたように
夫は自分をゆるすことができただろうか...?





私が性暴力の被害者であったように

夫もまた「男性性」という、目に見えない鎖に縛られてきた、いわば被害者だった。



心の広いパートナーであろうとして、
過去にこだわらない男であろうとして、



夫は自分の心に湧きあがる素直な感情を押し殺してきた。



これからは、夫婦の間だけでも、枠をとり払い、
自分の小ささも、愚かさも、笑って話せるような関係をつくり、
夫に自由になってもらいたい。
自分を解放してもらいたい...と、そう思う。




そんな関係の中でなら、夫はゆるされていくだろうか。




予想はできない。私にも分からない。




私が夫をゆるすのではない。

夫が、ゆるされるのは 私からではない。




私は 夫が ゆるされた と 感じられるその日が、

早く訪れますように と 祈るだけだ。





「ゆるされた二人」で 歩いていきたいんだ。
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by marca-mia | 2005-12-28 00:31 | 思うこと・自分

ゆるされること(2)


13年前の あの出来事だけでなく、
私はいつからか、自分の体験したすべてのことを
自分の責任と捉えるようになった。

意識的に生きることによって、失敗は次に活かされる。
つまづくとき、立ち止まるとき...私はいつも、
自分にできることはないか...と探してきた。

もうずっと長い間、それは習い性になり、
どんなに苦しいときでも、突破口を求めることをやめられない。

この習い性のおかげで、ほんとうにたくさんの気づきを得ることができた。
すべてを自分に帰することで、前に進んでこれた。

けれどもう限界かも知れない...。
そう感じたのが、夫の不倫だった。
レイプ体験よりも、
夫の不倫を知ったことと、その後の夫の態度の方がずっと辛かった。

不倫がどれだけ配偶者の心を壊してしまうか...分かってもらえるだろうか。

だけど私には、まさに、その「限界」が必要だったのだと今は思う。

「自分を認めること」「ありのままに生きること」の大切さを、
ほんとうの意味で知ったのは、「限界」を体験したからだ。

そして、私がここへ至るためには、今までの体験すべてが必要だったのだ。




不倫を通して、
私はそれまであまり意識していなかった「性」について、関心を寄せるようになった。
その出発点は「夫を理解したい」という思いからだった。
性について考えるときは、夫婦のセックスを充実させたいという気持ちが大きかった。


数日前、書店で「愛と性の美学」(松本侑子/著)を手にとったのも、
男女の性差についてや、不倫を生んでしまう土壌について
考察を得たいという動機からだった。




けれど読み進むうち


私の中の予期せぬ部分に
少しずつ、水が染み込んでいくように何かが広がっていった


体の奥の隠された部分に
固いしこりのように置き去りになっていたものが
松本さんの文章によってほぐされていくのを感じた



その本には「レイプという犯罪」の章があった



レイプを生む社会の構造や、女性差別について。
レイプされた女性の心理について。
レイプする男性の心理について。



読みながら、知らず知らず涙が出た



私はこのとき、13年という時を経て
初めて 「レイプされた自分」を擁護してくれる表現に出逢えたのだ



夫の不倫も、夫婦再構築へのステップにすることができた。
私を陵辱したあの男のことも、心の中で許すことができた。
自分を大事に生きていこうと思えるようになった。





けれど私は、
13年前の「レイプされた自分」だけは許していなかったのだ




あの出来事について、自分の責を認め、愚かだった自分を反省し
二度と同じ過ちは繰り返すまいと誓った。

自分が至らなかったこと。
夫を苦しめたこと。
自分の体を 心と切り離して相手に与えたこと...。

忘れないように、胸に杭を打ち込んだ。
自分自身に言い聞かせつづけてきた。

自罰的な結論を出したその地点から
自分をゆるす方向に一歩も動かずにいたのだ。




どんなに誰かをゆるしても



私はあのときの私自身をゆるしていなかった




あの出来事を思い出すたびに 私は23歳の私を叱った

愚かなりに精一杯だった23歳の私を責めてきたのだった





レイプについて、話題にする人は少ない

レイプの被害者に、かける言葉を持っている人には、なかなか出逢えない





誰にも話さなかったから。

夫にしか話さなかったから。

夫は、その言葉が必要だと知らなかったから...。




誰かに与えてもらうまで、自分で自分に、かけてあげることが出来なかった言葉




ページをめくるうち

何度も何度も 胸にこだまする声を聞いた




自分を縛っていた鎖を、私自身が ひとつひとつ断ち切っていく その音を聞いた




何度も何度も...








私は悪くなかった







私は悪くなかったんだ。
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by marca-mia | 2005-12-26 13:30 | 思うこと・自分

ゆるされること(1)


実は私には、レイプされた過去がある。

ずっと、書きたいような書きたくないような気がしていたけれど、
このことについて、とあることから、
とても救われる思いになったので、書き留めておこうと思った。

そのレイプは、数日前の記事で書いた「ある人」から受けたものだ。
以前のブログでも「殺したいと思った相手」として書いている。

それはレイプと実証されにくい状況での出来事だったし、
彼から日常的に暴力を受けていたことや
私生活を監視され、毎日1・2時間しか眠れない状態を数ヶ月も強いられて
思考能力が麻痺していた私は、
恐怖心から、抵抗したり、逃げ出したりすることが出来なかった。

少女が監禁されるなどの事件では
被害者が、客観的には逃げ出せる状況にあるのに、
犯人の命令以外の動きができなくなってしまう...。

私には、その心理がよく分かる。

それどころか、何とか暴力や暴言を受けまいとして
相手の気に入るようにさえ行動しようとする。
私は二人きりになると、彼に殺されるという恐怖から、
苦痛に耐えながら、望んで抱かれる振りまでしていたのだ。

だから、レイプだと主張しても 誰も信じてはくれまいという気持ちでいた。

それに、そのような状況に身を置いた自分が愚かだったことは誰に言われるまでもない。
自業自得でそんな目に遭ったのだし、
私の側に、その状況を容認してしまうような態度をとった事実がある以上、
訴えるなどはできないと思った。
その人から離れてもなお、しばらくは恐怖支配されていたことも大きかった。




夫の不貞を知ってから、
私は、
自分がかつて、自分の体を粗末に扱ったから
そして、私を犯した彼の、妻であった人を 間接的に苦しめたから
こんな罰があたったのだと思った。

そして、私を苦しめた彼と同じように、
夫が、私と同じ性であるひとりの女性を
自分を慰めるための人形のように扱えることにショックを受けた。


レイプ犯は、肉欲を満たすために相手の体を見るが、相手の人格は認めない。
被害者の心の傷は、人格を否定されること、人格を殺されることだ。
その意味で、ある種の不倫は、レイプに似ていると感じた。

夫にそこまでの意識はないはずだし、
不倫とレイプを結びつける人なんていないかも知れない。
この思考回路は、私自身が被害者だからだろうか。
今でもこの思いは、少しではあるけど、くすぶっている。



夫の告白から数ヶ月経ったある日、不貞の話題から口論になり、
興奮した夫の口から 「君だって、同じ事をした」 という言葉が出たとき
目の前が真っ暗になった。


私「......同じってどういう事?」

夫「だって、君は逃げなかったし...」


それから数日間、私は口がきけなくなった。
のどが締め付けられ、言葉が出なくなってしまった。


まわらない頭で必死に考えた。



13年前......
私をレイプしたあの人から離れたとき、
私を迎え入れ、生活をともにしてくれた夫に、私は事実を話した。
別れるつもりで話したのだったが、夫は私を受け入れてくれた。


あの日から、私は、夫に償いの気持ちで尽くしてきた面があった。


けれど、13年前のあの日、私は多くを語らなかった。
夫は、私がどんな状態にあったのかをよく知らないままに、私の告白をさえぎった。
そして、「俺は過去にこだわらない」と言い、それっきり、詳しいことを知ろうとはしなかった。
耳を塞ぎたかったのだろう。
聞くことが耐えられなかったのだろう。
私を憎みたくもなかったのだろう。

それからしばらくは、「あの男をどうやったら殺せるか...」と考え込んでいた。
私がそれを止めたことで、夫はもしかしたら、
私が望んで彼に抱かれたのだ、との思いを、強くしてしまったのかも知れない。




3年前......
ふとしたきっかけで、私はあの男を「許せる」と思った。
その心境を夫に話すと、夫が鬼の形相になって叫んだ。

「ゆるす!?ゆるすなんて簡単に言うな!!!
 俺は今でもあいつのことを考えるとハラワタが煮えくりかえるんだ!!!
 俺はずっとあいつを殺そうと思ってきたんだ!!!」



10年かけて、夫は憎しみを燃やし続けていたのだ。
直接の被害を受けた私よりも強く、長く。
そして、このときの夫の怒りは、あの男へのものでありながら、
まっすぐに私に向けられていた。


夫の目を見た私は
「あの男に抱かれた私を許せないんだ...!」と悟った。


あの男をゆるしてしまえる私をゆるせないんだ。
私があの男を憎み続けている限り、夫の心のどこかが、安定していたんだ。




去年......
夫の不貞によって、私はボロボロに壊れ、
何故こんなことになったのか、執拗に夫に迫り、
勇気を出して、死にたいほどの苦しみを全身で表現し、夫の前にさらした。
夫の不条理な行動を理解したくて「何故」を繰り返した。

夫は私のそんな行動に

「俺はそんなことはしなかった」
「俺は辛くても聞かなかった」
「一緒に居ることに決めたから言わなかったんだぞ!それなのに君は...!」となじった。


......




私は、13年前、短い言葉ひとつで、夫に理解してもらえたかのように、錯覚していた。
それは、経るべき過程を経ずに楽になりたいとの、
身勝手さから生まれた勝手な思い込みだった。

夫は、疑問や葛藤がありながらもそれを隠して、真実を私の口から聞こうとしなかった。
私を許し、受け入れることは、「何も聞かない」ということだと信じていたのだ。


だけどそのことが、夫の中での時を止めてしまった。


私がちゃんと話さなかったからだ。

言いにくいから、話すのが辛いからという理由で。

自分の落ち度を追及されるのを恐れたのかも知れない...。

そうだ、私は、考えてみたら、きちんと話していない...!

だから、夫が「俺の不貞と同じこと」と捉えているんだ。




数日後、私は意を決して伝えた。


13年前のことを。
今でも忘れることができないあの地獄を。
たぶん、何を聞かれても、昨日のことのように答えることができるであろうあの光景を。
あなたにとっては、自分の不貞と同じことなのかも知れないその中身を。
どんな状況で、どんなことをさせられたのかを...。

話さなければいけないと思った。

夫はあの出来事のために...、
あの出来事について口にできないばかりに、苦しんできたんだ。

私がどれだけ苦痛だったのかを、話さないで済ませたばかりに、
夫は、無用な嫉妬心を心のうちに飼ってしまったのだ。

だからといって、不貞していいわけではない。
ほんとうは、あの出来事と不貞は結びついてはいない。
夫が不貞した言い訳をしようとして口がすべったのも分かっている。

だけど、夫の心のある部分が、「知ること」によって救われるはずだ。


嗚咽がまじり、顔が歪んだが、私は話しつづけた。
すべてを話してしまおうと決めていた。



「もう、いいから...。」

夫がうなだれた。

「もう、いいんだ...。もう、そんなこと、話さないで...。
 知らなかったからさ、俺...。そんな風だったなんて...。
 悪かった。そんなことされたなんて、知らなかったから...。」


私は夫を追い詰めたのだろうか。
夫の顔は、思いつめていた。
私の肩に手を置いて、休ませようと体で促した。


「悪かった...。」


それ以上言葉が出ないようだった。

二人とも、放心状態のようになった。





良かったのか悪かったのかは分からない。
だけど、夫の胸に巣食っていた複雑怪奇な嫉妬心という化け物は
それ以来、暴れてはいない。

私は、真実を伝えることで、
夫の、あの男への憎悪が増すのではないかとも思った。

だけど、リスクを超えて、直感に従って行動した。
そのことで、二人ともが 何かを捨て、何かを得たと思う。

夫には、私の理解を超えた、男性特有の嫉妬心とでもいうものがあるのだと
どこかの時点で私は気づいたのだ。
それは今でも、私にとって理解できない感情だけど、
その嫉妬心は、自分の大切な人を犯された、という苦悩を上回るものなんだと感じたのだ。

大切な人を犯された、という苦しみも、きっと果てしなく大きいものだとは思うけれど
私が喜んで抱かれたのだと想像することの方が、
きっと夫にとっては苦しいことだったのだろうと思う。
そして、そんな自分を表現することもまた、夫にはできなかったのだろう。

当事者である私には、辛い部分もあるけれど、
13年前に、夫から思いをぶつけられていたら、私自身、耐えられたかどうか分からない。


だからこれで良かったのだ。


夫は自分の中の悪魔と、13年も戦いつづけてきたのだ。

そして私も、13年経ったから、話すことができたのだ。



13年ごしに、吐露し、涙することを、ゆるされたのだ。
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by marca-mia | 2005-12-26 03:34 | 思うこと・自分

出し惜しみ


自分の気持ちって、
出し惜しみしたところで、何の得にもならないよ。


出したら減るもんでもないよ。


だから素直になっちゃお!ねっ^^
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by marca-mia | 2005-12-21 23:49 | 思うこと・自分

“自由” を気づかせてくれた人


これまでの人生を振り返ったとき、
私はエネルギーロスが多いタイプなのかも知れない。と思う。

困難に遭ったとき、
大きな迷路の中で、遥かかなたのゴールを思って右往左往する。
すべての道を試さないと、ゴールに続く道を見出せない。
すべての道が障害物で阻まれていることもある。
障害をどうやったら取り除けるのか、
考え、試し、考え、試し、の繰り返しで自分を削ってしまう。
自分の力で、光明を見出したいとの思いが強い。

そんな私でも、すべての道が閉ざされたように感じるとき。

どうにもこうにも行き詰まったときだけ、信頼のおける人に占ってもらうことに決めている。

今までで占ってもらったのは2回。

その一度目が、運命的な出逢いだった。
23歳の半年間、私はある人によって闇の世界に押し込められてしまった。
(否、今思えば自分で好んで飛び込んだのだが)
ある日、ふと目にした鏡に
まるで死神が憑りついたかのような 腐った目をした老婆が映っていた。
その老婆が自分だと気づいたとき、冷や汗が流れた。

狼狽した。
と同時に私は切迫した感覚にみまわれた。
心が急速にものすごいスピードで走り出した。血が流れ、どくどくと脈打った。
胸の奥からざわざわと、もうひとりの自分の声がこだました。
「変わらなければならない!変えなければならない!」

でもどうしたら?
このどん底の状態から、どうすれば抜け出せる?
知恵の浅い私には、そのときの状況は蟻地獄のように思えた。

私の切実な思いを聞き届けてくれたかのように、
絶妙のタイミングで、ある占い師さんの存在が私に告げられた。
その当時の私は思考能力すらまともではなく、
八方塞がりの分かれ道の真ん中で、突然示されたもう一本の道を選ぶしかなく、
その占い師のTさんのもとへ行った。

その出逢いが私を救ってくれたことは、
私の人生が、土壇場のところでは運に恵まれていることの証のように思える。

Tさんは怪しい小部屋でランプを灯してではなく、
ご自宅の居間の温かいこたつに私を招き入れてくれた。
ごくごく普通の主婦だった。

ずっと落ち着いた笑顔で話してくれた。
叱り付けたり、恐ろしい未来を予言して脅すこともなく、
憔悴しきった私に、「私が今いるところ」を様々な角度から教えてくれた。

Tさんは霊能力もあり、
私の背中に手を当てて浄霊のようなことをしてくれた。
そのとき私が、閉じた目の奥に白い光を見たことを話すと、
Tさんは「あなたは、自分で(浄化することが)できますよ。」と言われた。

「今どんな気持ち?今どんな言葉が浮かぶ?」
私の胸に言葉が浮かんできたのを知っているかのようにTさんが聞いた。

私は答えた。
ついさっき、白い光とともに自然に湧きあがり、
心の中で叫んでいた言葉を、今度は声に出して...


私は自由だ!私は何者にも束縛されない!私は自由だ!


その瞬間から、すべてが動き始めた。
私を脅し、意のままに操り、けして自由にはさせないと言っていた「ある人」が
それまでの言葉を180度ひるがえす電話を自宅にしてきたのが、
まさに私が浄霊していただいていた時間だった。



私はそれまで、自分自身で「自分は自由ではない」と規定してしまっていたのかも知れない。



体も壊し、金もとられ、心に傷を負い、ボロボロの状態ではあったが、
私は、自由になった。
自由であることの素晴らしさを知った。


今、「自分は自由ではない」と感じている人たちに、
知ってもらいたいことがある。


形の上で自由を得ることと、ほんとうの自由を得ることは別なのだと言うこと。


私自身、あの頃一度気づいていながら、それをハッキリと意識化しなかったために、
結婚生活の中で、同じ過ちを繰り返していた。

その過ちとは、自分で自分を縛ってしまうということ。

他人の束縛から逃れることが先なのではなくて
精神の自由が先にあるということだ。

環境を変えることで自由になれたと思っても、
日々を過ごす中で、その「自分を縛る習慣」は、小さいながら、毎日積み重ねられていく。
不自由感を感じる頃には、それが自分でつくり出したものだとは 忘れている。

不自由感が積もり積もると、
それを蹴散らすためにはたくさんのエネルギーが必要になる。

私はそれを繰り返し、その度に、たくさんのエネルギーを消耗したと思う。



今はちょっと違った意識でいる。

自由であることに、もっと 日頃から意識的でいようと思っている。
「今の自分は自由でいるか?」を、日々チェックしている自分がいる。
ドロドロになってから大手術するのではなくて、
澱が溜まらないうちに、マメに浄化していこうと思っている。

そしていつか、あの気づきが、自然に身の一部になってくれる日を 心待ちにしている。


なんだか私は、自由になるために生きている、という気がするのだ。


もっともっと自由に。


もちろん、目に見える形で、どんどんやりたいことをやるのもいい。
必要なら、結婚生活の様々な制限から逃れて、新しい人生を始めるのもいい。
けれど、主婦のままでも、どこに住んでいても、できることだと思っている。
私の自由が、私に関わるすべての人の自由にも つながるものと信じている。


もっともっと自由に。

もっともっと。
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by marca-mia | 2005-12-17 23:48 | 思うこと・自分

言葉について考えている(2)


それでね...^^


もう何度目か分からない forgiveさんの記事へのトラックバックです^^


私の文章はときに厳しくて固くて、
それは私の中にまだまだ残っている、
自分に対してまっすぐにプレッシャーをかけてしまう癖や
自分の信念以外のものが脇目にも入らない頑固さが
きっと他者へ発信していくときにも、出てしまうのだろうな~と思うのだけど。
それがいいとか悪いとかでなく、今の自分がそうなのだろうな~と。


forgiveさんの操る言葉は、
深い内容でありながら
読む人の心にすいっと入ってくるような飄々としたところがあって、
私にとっては、語られている内容ももちろんですが、
語り口もまた、魅力なのです^^



毎日が自分との仲直り


****************************************

自分の小ささを認めるなんて、卑下しないで
自分のサイズを知るだけだ。

自分の、今のサイズを知るだけだ。
日々変化する自分のサイズを知るだけだ。

****************************************
     

毎日自分と仲直り。
コツコツと
とつとつと
ワクワクと仲直り。





こんなにホンワカと
こんなに平易な言葉で
身近な表現で編まれたforgiveさんの言葉に触れたとき


小さな指輪が入った箱を目の前にそっと置かれたときのように、
大切な宝物を受け取った気分になる。


けっして押し付けがましくなく。



腰を据えて、真正面からひたと見つめ、
切りつけるように 自説を速球で投げ込むのもよいけど


ほおづえついて 甘~いものでも食べながら
緩んだ唇から 鼻歌のように流れ出た真理を
ナナメ後ろから そよ風のように ふっと吹きかけられたなら


ほっと和んで、い~い気持ちになって
ふんふん、ふんふん、と知らぬ間にうなづいてしまいそう♪


そーんな大したことじゃないんだよん って顔で
固いことも、難しいことも
「自分と向き合う」なんて、まるでスパルタ!?みたいな
そんな言葉も無しに。


体温のある言葉にヒョッととりかえてしまえる人は


自分の得た気づきを
身につけた真理を


「自然」の域まで体に染み込ませた結果として
言葉も「自然」になっていくのではないかな。


キヲツケして胸張って肩をいからせて
ものもうす!なんて大上段に構えるのではなくて


息するのと同じくらいのリラックス感で言える人


そんな人だからこそ、
いざというとき厳しい目つきで喝を入れられたら
それはそれで効果は大なわけで。


要はバランス?
要は時と場合ってこと?
もう何度も何度も再認識したことではあるけれど。


やっぱりホームポジションは、自然体にしておきたいなって思うのだ。



ガチンコ対決じゃなくってね。
独り言のように...だけど決して曖昧にすることなく。
柔らかい言葉で...だけどできるかぎり正確に。


伝えたい気持ちが強いとついつい、
普段は使わないような、威力のある言葉を使おうとしてしまうけど。


強い言葉と、心に届く言葉は 違うんだよね。



ほんとうに必要なときは腹をくくって、
相手の心に、ピストルのような言葉を撃ち込むこともできるような...、
そんな勇気も 持ち合わせていたいけど。


ふんばって、がんばって、こわばって...硬くなった ヒトの心は、
ぶつかってくる言葉は跳ね返してしまうから。


うすーく広がって包み込むこともできるような
まるーくなって相手のまわりでころころ転がれるような


そんな変幻自在な自分を
今ある自分の中からひっぱり出そう。


自分の中にはどんな自分だっているのだから。


今の自分に無理をせず、
今いるところから一歩ずつ、
いつかはそんなジブンになろう...と思いながら、願いながら。



こうやって書いてるうちに少しずつ、少しずつ



近づいていけると 信じて。
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by marca-mia | 2005-12-14 15:53 | 思うこと・自分

言葉について考えている(1)


大人になるって、言葉を覚えるってことなんですよ


どこで見かけた言葉だったか、忘れてしまったけど...。
瀬戸内寂聴さんだったかな?黒柳徹子さんだったかなぁ...。うろ覚えです。


私は言葉が大好きで、言葉にこだわる自分ってどうなのかな?って。
何だかバランスが悪くないのかな?って思っていたのだけど、
ちかごろ、何かと思うところがあって、
「やっぱり言葉って、追求しがいのある素晴らしいものだ...!」それが結論になりました^^


他人への思いやりとか、自分の解放度とか、自然と言葉に出るものだと思う。
日本語として正しい言葉遣いをしているとか、そういうことではなく。



私は人生の節目節目で、言葉の力を実感してきた。
振り返ると、私に関わってくださったたくさんの人とともに、
その人たちの言葉を思い出す。
私自身も、自分の言葉で誰かが楽になったり、勇気を出してくれたりした経験が、
いつまでも印象深く、想い出に残っている。


文章力をある程度まで技術的に訓練していくことができても、
その人の血となり肉となった「経験」がなければ、グッとくる言葉は吐けない。
その人から出てくるものが言葉という形を借りて現れるのだから
オリジナリティのある言葉は、オリジナリティを持つ人からしか出てこない。



頭だけで書いてる人

理屈ばかりを優先する人

行動が伴わなくて口ばっかりの人

心を閉じたまま言葉で武装する人

そんな人が書いた文章は、きっと感受性の鋭い人には、分かってしまう。



私たちが詩人の言葉や唄の歌詞に心を揺さぶられるのは、
生まれてこのかた、どれだけ多くの言葉に接したか分からないのに、
まだまだ未知の言葉との出逢い、
その言葉を生み出した人間との出逢いというものが、あるからなんだな。


今はもうこの世にいない人であっても、
その人物の感性に、言葉を介して触れることができるのは、ほんとうに幸せなことだ。



いくつかのシンプルな単語の組み合わせでも、
その並べ方をちょっと変えるだけで、
人の心に初めての感動を呼び起こしてくれる言葉。


言葉を使って遊ぶこともできるし、音楽として楽しむことも出来るし、
アートにもなるし、ときには、それを目にした人の生き方さえ変えてしまう。


自分の中に、伝えたいものを持っている人は、幸せ。
ぴったりな言葉を探す楽しみがあるから。


言葉が見つからなくてもどかしいこともあるけれど、
いつか自然に、言葉にできたとき、
自分の成長をちょこっと誇らしく感じることができる。



伝えたいものがひとつ、またひとつ、形になっていく幸せ。


...と同時に、



伝えたくないものを伝えてしまっていないか。
伝えたいもの、そのものを見誤っていないか。
振り返る気持ちを持っていよう。
感じとる心を磨こう。



傷つく言葉に出逢ったら、
自分の中の何が傷ついているのかな...と、そんなところに心が向きますように。
他人の言葉には、ほどよく鈍感であれますように。
言葉の裏にあるものを、少しでも多く見通せますように。



どんなに言葉が大好きでも、
言葉がすべてではないことを、忘れずにいられますように。
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by marca-mia | 2005-12-06 17:34 | 思うこと・自分

目に見える形よりも (長いっ!)


たとえば、不倫。

たとえば...と書いたのは、不倫自体は表象的な問題で、
実際の問題は夫婦関係のありかただと思っているので...。

ギャンブルとか、暴力とか、配偶者の問題行動には色々あると思う。
それを理由に離婚を選択する人もいる。

離婚を、良いとか悪いとかは私は思わない。

だけどたとえば、不倫にも色んな形があるように、
離婚した人にも、色んな人がいるのだろうと思う。

私は、夫に不倫された妻ではあるけれど、
同じ立場にあるすべての人に共感する訳じゃない。
不倫を経て夫婦関係を継続している人でも、
形だけ継続しているからいいってもんではないのでは...と思うような人たちもいる。

離婚した人だって同じ。

離婚の原因は?と聞かれて、


  「夫の暴力です」
  「妻の不倫です」
  「借金です」


と、だいたいは相手の問題行動を挙げる。


けれど、つっこんで話をしたときに、
相手の問題行動を通して浮かび上がった、もっと別のもの、
たとえば「不倫」という一言の裏にある、元配偶者への言い尽くせぬ思い、
離婚に至るまでに自分が見つめたもの、自分が考えたこと...。
それらを、とつとつと語る人がいる。

語るものがない人もいる。


  「相手がこんなにひどい事をした。」
  「相手がこんなにひどい人間だった。」


そんな言葉しかない人もいる。


外から見て、その両者を区別するものはない。
「離婚した人」あるいは「ダンナさんの○○が原因で離婚した人」
というくくりでしかない。


私はそんなくくりで人を見ることの愚かさを思う。



もしかしたら、私が夫の不倫を経て得た考えのひとつがそれ。
「過去に何をしたか」ではなく「その人が今現在どんな人なのか」で人を見たい。


その人と一緒にいて、どんな気分になるのか。
その人と話していて、どんな印象を受けるのか。
その人の瞳を、あったかく感じるのか、くもっていると感じるのか。
その人が、恨みを抱えて生きているのか、
それとも過去に感謝し、前を向いて生きているのか。


人と対するとき、
そんな皮膚感覚のほうが、私にはよほど頼りになる。


私は、今現在離婚を考えている人には
相手の幸せを願って別れるような、そんな状態までいってくれたらいいなぁと思う。
表層的な幸せじゃなくて、その人の全人的な幸せを願えたらいいと思う。


配偶者が不倫を繰り返したり、
行き過ぎた借金・ギャンブルをやめられなかったり、
暴力行為を正当化するばかりだったとする。


その被害を受けた配偶者は、周りからも同情されるし、
自分の受けた仕打ちにばかり目がいって、
相手は快楽に浸かってばかり、楽な方に逃げてばかり、
自分の言い分ばかり...と思うかもしれない。


でも、そんな依存行為をしている人は、幸せなはずはないのだ。


自分自身気づいていなくても、
快楽におぼれているその人の、深層にある魂は泣いているのだ。


そこまで理解し、相手を救うためには、
どんなに悔しくてもまずは相手に対する自分の反応を変えること。
そしてこれが本当に難しいけれど、
その反応が、自分を殺すものであってはならない。
つまり、自分を救いながら相手を救うのだ。


自分の内奥の欲求に正直であることと
相手の内奥の欲求を満たすこと
私はこの二つは、矛盾するものではないと思う。


だから、自分を知ることが大事なのだ。


間違ったアプローチをしないために。


試行錯誤するエネルギーを持ち続けるために。



自分自身についても、表面に浮かんでくる思いだけでなく、
深いところまで降りていって理解する必要があるのだ。


実際は、そこまで思えたら、離婚にならないケースの方が多いのだろうけど。



それでも、
自分がそんな思いで向き合っていても、
相手とのどうしようもないズレが埋められないことはある。
相手の心が頑なで、伝わらないこともある。
もう耐えられないと思ったときは、
自分を大事にするために別れるというのは、ありだと思う。
自分がどこまで耐えられるか、自分の限界がどこにあるかを見極めるのも、
自分を知っているからできることだ。


それから根本的な問題として、
そもそも、そこまで思えるくらい相手のことが「好き」なのかどうか。
「好き」という気持ちは、理屈じゃない。
「好き」と思える相手とめぐり合えること自体、神様からのプレゼントのようなものだと思う。


そりゃあ、相手に惹かれた理由として、心理学的には色々言えると思う。
始まりは誰だって、自分の依存心を満たしてくれそうな相手に恋愛感情を持つのだろう。
でもそれだけに、
病的な依存関係が健全な依存関係に覆る可能性もある...そんな組み合わせなのだと思う。
だから相手を「好き」になったその事を、私は大事にしたい。
二人の関係が、たとえ結果的に別れに終わったとしても。



夫婦の関係がよじれてしまった人は、


色んなことが起こり、
不快な思いをし、
傷つくことが続く中で、
逃げたい気持ちが湧いてくるだろう。


その逃げたい気持ちを、
別の何かにすり替えることがないように願う。
逃げたい気持ちも、素直に認めれば、逃げではなくなる。


別れてしまったあとで、すり替えていたな...と気づいたら、
またそこから自分を見つめればいい。
相手を恨んで別れた人は、
いつか相手の幸せを願えるようになれればいい。



別れた人も、
続けている人も、
これから別れようとしている人も。



相手の幸せを願えるようになることは


「好き」を「愛」へと押し上げてくれる...そんな気がする。
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by marca-mia | 2005-12-02 12:02 | 思うこと・夫婦